今学期最後の授業が、月曜日に終わりました。最後の授業は、AuditしているMichael Dolye先生の"Topics in International Ethics"。今学期(そして恐らくSIPA在学中)、最も印象深く、また最も質の高い教授と授業内容でした。毎回クラスでは、先生が淡々と重いテーマ を学生に提示し、PhDの学生数人も含めた20人ほどの受講生で濃いディスカッションが繰り広げられます。毎度テーマが重過ぎて、私は授業後もしばらく数 日、なかなか消化しきれなくなってしまうのですが、最後の授業も多分に漏れず重い課題でした。前回二回、international distributionの回で、経済格差の不平等と分配の問題について議論したのち、5月1日に最終回を迎えました。
「何故、リアリス トは、国内法で人々に人権と機会の平等を保障しているのにもかかわらず、一歩国の外のことになると、飢餓や殺戮にさらされている人々を見過ごし、何もしな いでも倫理的に済まされるのか。」「"Decent"といわれる国々の人々は、飢餓や殺戮にさらされている"burdened"に対し、その場凌ぎの "Aid Assistance"をすることで気を済ませているが、何故、(根本的な解決をするために、)国内で保障する人権と平等について、国際社会の中では責任 を追わなくても倫理的に許されるのか。」
リアリストに挑戦するリベラリストの倫理的問いに対して、リアリストの答えは、先生によれば、 「人権を守るとは尊厳を守ることだが、尊厳の与え方(dignify)は文化によって異なるのでタッチしないでもいい、という言い訳がつく」 (cultural differences)。また、「目の前で瀕しているのでなければ、特に関わる責任も生じないと感じ、良心の呵責に苛まれることもなく、干渉しないとい う選択をとる」(self-determination/self-deffence)。という、二つがあるのでは、とのこと。皆さま、いかがでしょう。
つ くづく思ったのは、国際社会で急速に広がっていく格差や不平等の問題について、開発経済学などで「どのように是正していくか?」ということが広く学ばれる ことはあっても、その前提となる「なぜ是正しなければならないのか?」という根本的倫理的議論が、これまで抜け落ちてきたのだと気付きました。同級生や学 外の人と話していると、何故日本はアフリカに関わらなければならないのか、 とよく聞かれます。何故、他人事の貧困削減に、日本を含めた国際社会が取り組まなければならないのか、国内だって大変な状況なのに何故ODAを GNP0.7%まで上げる必要があるのか、国民になんて説明するのか、何故スーダンに自衛隊を派遣しなければならないのか。Let them fight among themselves! などなど…。
確かに、日本にとってアフリカは、地理的にも遠い、歴史的責任もない。し かし、アフリカの惨状を解決することは、グローバル化後貿易などで相互に依存しあい恩恵を享受する国際社会が、急務の課題として取り組んでいる共通の問 題。実際、安保理で話し合われる議題の6.5割は、アフリカについてです。2001年9/11以降は、前にも述べたとおり、貧困がテロの温床となるという 安全保障との深い繋がりが認識されるに至り、米は対アフリカ援助額を4倍近くに、仏も3倍以上にあげています。(主要国の援助額推移グラフ) 対アフリカ問題の取り組みは、国際社会の平和と安定のための戦略と位置づけてられているからです。日本は国際社会の一員として、恩恵を受けている限り、問 題の解決に対する責任があるのだと思います。…といっても、なかなか実感として沸かないのが普通のようです。でも、今回の小泉首相のアフリカ訪問もそう いった背景があると思います。
私が公共政策を勉強したかった理由のひとつは、国内の公共政策の考え方や政策を、どのように国際公共政策に 汎用させるのか、考えてみたかったこともあります。(が、そのような勉強は全くできず、リアリスト集団の中で喘ぐだけでした。)国内では、税金や社会福祉 政策による富の再分配・所得再分配が政策の中で実施されているが、国際社会には税金などない。1年間、経済の仕組みを勉強しましたが、これでは格差が広 がっていくばかりで、是正に向けた解決策とはならない、と理解しました。(間違ってるかしら。)
微々たる援助や経済成長をしたところで、 到底、平和と安定のための再分配には及ばない。要するに、南北の不均衡と不平等の問題を解消しよう、機会の平等と人権を保障しようという、国際社会の「政 治的意思(political will)」が足りないことが問題である、と、リベラリスト・Doyle先生は"ethics"と銘打つ授業の中で伝えたかったのでは、と思い至りました が、どうでしょう。"Responsibility to protect"の掲げる国際社会の責任の概念が、人道的罪の阻止のみではなく、国際人権や機会の平等の保障へも、幅広く浸透していくよう、いずれ理論の 構築が為されていく必要があるように思いました。
余談ですが、もうひとつDoyle先生の授業の中で印象に残っているの は、Wars and Massacresの回でもあります。その週は忙しくて予習できず、題名だけ見て「ルワンダかダルフールのことかしら~」なんて暢気に授業に出たところ、 最初から最後まで広島・長崎の原爆投下の是非が話し合われました。(「Wars and Massacres」と聞いて他人事と思っていた、己の認識不足と準備不足を、深く恥じました。)
20人近い受講生のうち、日本人は外交 官T君と私の2人のみ。ディスカッションになると、学生から次々に「ソ連の侵攻を防ぐには仕方なかった」「日本兵のアジアにおける女子供相手の蛮行を考え れば、日本人の女子供が原爆の対象となるのも当然の報いである」「結果オーライでしょう」という意見が旋風し、私が隅の方で一人わなわな震えていると、T が「本当にlast resortだったのか?」「2つ目の投下は本当に必要だったか?」などの意見を出しましたが、あまり反応はない。
Doyle 先生は最後に、「他に戦争を止めさせる手段があったとすれば何か」と問うていましたが、特に目立った答えはなく、逆に「原爆投下後も当時の戦時内閣の半分 以上は戦意を喪失していなかった」とたたみかけられました。戦後にできた国際人道法(いわゆる戦争法)は、日本やドイツの戦時行為を防げなかった反省をも とに作られたことも、後に別の授業で学びました。遅らばせながら、米国で国際関係学を学ぶ洗礼(もしくはSIPAの洗礼)を、浴びたようにも思います。 もっと理論武装できるだけの知識を、国内で学びたかったとも思いました。
さて、そんなDoyle先生も、来学期から1年、サバティカル へ。先生が秋学期に通常開講しているPKOの授業がとれないのは、残念でなりませんが、少なくともこの授業で、SIPAに来て心より良かったと思える偉大 な先生に出会えたことは、本当に幸運でした。勧めてくれた同級生方、そして授業後の消化不良解消に時々付き合ってくれたT君、どうも有難う。
そういえば、そろそろ小泉さんがガーナを訪問中の頃でしょうか。この8~9年、ぶーぶー文句を垂れてきた私にとって、ちょっと感慨深いものがあります。時代は変わるものよのう…。
ところで、もう一人の偉大なる先生、Madam Lindenmayerについては、また次回。
Wednesday, May 3, 2006
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