Saturday, January 13, 2007
77. Sea World
Friend Y, a marine biologist, renewed her page, too. Don't miss her fantastic pictures of the sea world! ----> 鰭脚域
Thursday, December 28, 2006
76. Renewal! - added Travel pages
Renewal Open! - Sorry for the inconvenient access in the last few months. Many many thanks for your reading my private mumbling...
I added several pages on travels in my 20's. One of the initial reasons I opened this blog is to compile my pics and experiences during trips, first, to organize for myself and second, to share them with you instantly. Will keep constructing these pages step by step when I have time, while digging out old pics at jikka and here and scanning them for upload... mmm...
New Zealand (1995)
Thailand, Laos (1996)
Cote d'Ivoire, Togo, Benin (1997, 1998)
Bulgaria, Yugoslavia, Croatia (1998)
SWY - South Africa, Tanzania, Seychelles, the UAE, Singapore (1999)
Bali, Lombok, KL, Sydney (2002, 2003)
I added several pages on travels in my 20's. One of the initial reasons I opened this blog is to compile my pics and experiences during trips, first, to organize for myself and second, to share them with you instantly. Will keep constructing these pages step by step when I have time, while digging out old pics at jikka and here and scanning them for upload... mmm...
New Zealand (1995)
Thailand, Laos (1996)
Cote d'Ivoire, Togo, Benin (1997, 1998)
Bulgaria, Yugoslavia, Croatia (1998)
SWY - South Africa, Tanzania, Seychelles, the UAE, Singapore (1999)
Bali, Lombok, KL, Sydney (2002, 2003)
75. Festive holiday


Again, this year, we had a festive night on Christmas holiday at our apartment. The recipe is same, fun cooking, home dishes, good wines, beautiful music, and nice people.
This year, we happened to have a special guest, a pianist, Ms. Y.G.
In the last few days after completing the hardest semester, I've
The pianist, Y-san, reminded me of a golden rule; she recently had a specia
...Well, here, now, let me send you all my best wishes for your holiday sea
With lots of love and best wishes,
Monday, August 7, 2006
74. Lebanon...
(This piece was written during the internship period last summer)
インターンを始めてから最初の一週間は、ずっと耳が痛かった。歳を重ねるにつれ、反省することが日々多くなると、こうまで耳も痛くなるものか…とも思ったが、今一度考え直してみると、どうやら高いところに上りすぎたのが原因らしい。…37階, USG Office (DPKO) 。 ある日突然、高速エレベーターで上り下りをはじめたら、唾を飲みこんでも、気圧の変化にうまく耳を調節できない。片耳だけツーンとなったままなので、人の 話にもなかなか集中できない。しかし、三日目には、ヒズボラとイスラエルの交戦が始まり、そんなことも言ってられなくなった。そうこうしてるうちに、気付 いたら最近はもう耳も慣れたようだ。
私の今のインターンの主な仕事は、国連平和維持活動に関するメディア・モニタリング。週3日、朝6時 に起きて出勤し、朝9時過ぎから始まるディレクター会議に出席するボスのため、重要な記事をピックアップして資料を作る。今は、毎日、日本以外の世界中の メディアを賑わせている中東危機とレバノン・ミッション(UNIFIL)に関する膨大な記事と分刻みで目まぐるしく変化する政治動向に追われている。
戦況や国際政治の動きだけでなく、1970'sの古典的な平和維持軍の 無力さ(停戦が破られた後の停戦監視団の切なさ)、新しい平和維持軍の形とマンデイトについて、安保理のジレンマ、Troop Contribution Countries (TCC) について、毎日世界中から記事が出稿される。AP、ロイター、AFP、DPA、新華社通信、New York Times、International Herald Tribune、Washington Post、Financial Times、CNN、Fox、BBC、Le Monde、El Pais、Deutsche Welle、New York Sun(NYユダヤ系新聞)、Jersalem Post、The Daily Star(レバノン紙)、Al Jazeera、シリアやイランなど、それぞれのメディアが、それぞれの政治動向や世論の動き、op-edを載せるので、それら各国の政治動向、論調や批 判記事を追う。また、安保理に毎回、状況を報告をしている事務次長(平和維持活動担当)の発言や記者会見も引用されるので、そちらも漏らさず追う。政局に 合わせてイスラエルやレバノン政府から出されるstatements、記者会見や談話や声明、各ミッションから届く、コード・ケーブルにも目を通す。毎 日、media monitoring reports を作るほか、fact-finding researchesをする。
同時に、約20ほどある他のPKOミッションに関する記事もモニターする。レバノンに関する膨大な記事に目を通したあとは、コンゴ、スーダン、グルジア、コソボ、東ティモール、ハイチなど、それぞれ派遣されているミッションや政治状況についてモニターをする。毎正午には、事務総長報道官会見(Noon Briefing)もモニターする。PKOに関する記者との tensed なやりとりの note を作る。
7月末、peacekeepers 4人がイスラエル軍による攻撃で 殺された。その直後には、コンゴで初の民主選挙が実施された。アフリカの大戦と呼ばれ、何カ国もの利害が複雑に絡み合った内戦-大戦に、歴史的終止符を打 つ記念的な選挙にも、メディアのアテンションを振り向けるため、Lebanon危機でうずうずしているジャーナリストを前に、事務次長自らによる記者会見 を30分ほど行う。事務総長もハイチへの訪問を取りやめない。同時多発的な国連のマルチ・タスクに舌を巻きつつ、最近は掃いて捨てるほど毎日各国から沸き 出てくる国連平和維持活動に関する記事の膨大さを、事務次長室 (USG Office) のために、一人で追うことにプレッシャーを感じ、少しくたびれてきた。でも、面白い。この simultaneous multiple attentions の ethic こそ、ずっとmass-mediaで探していたものだったと思う。
インターンを始めてから最初の一週間は、ずっと耳が痛かった。歳を重ねるにつれ、反省することが日々多くなると、こうまで耳も痛くなるものか…とも思ったが、今一度考え直してみると、どうやら高いところに上りすぎたのが原因らしい。…37階, USG Office (DPKO) 。 ある日突然、高速エレベーターで上り下りをはじめたら、唾を飲みこんでも、気圧の変化にうまく耳を調節できない。片耳だけツーンとなったままなので、人の 話にもなかなか集中できない。しかし、三日目には、ヒズボラとイスラエルの交戦が始まり、そんなことも言ってられなくなった。そうこうしてるうちに、気付 いたら最近はもう耳も慣れたようだ。
私の今のインターンの主な仕事は、国連平和維持活動に関するメディア・モニタリング。週3日、朝6時 に起きて出勤し、朝9時過ぎから始まるディレクター会議に出席するボスのため、重要な記事をピックアップして資料を作る。今は、毎日、日本以外の世界中の メディアを賑わせている中東危機とレバノン・ミッション(UNIFIL)に関する膨大な記事と分刻みで目まぐるしく変化する政治動向に追われている。
戦況や国際政治の動きだけでなく、1970'sの古典的な平和維持軍の 無力さ(停戦が破られた後の停戦監視団の切なさ)、新しい平和維持軍の形とマンデイトについて、安保理のジレンマ、Troop Contribution Countries (TCC) について、毎日世界中から記事が出稿される。AP、ロイター、AFP、DPA、新華社通信、New York Times、International Herald Tribune、Washington Post、Financial Times、CNN、Fox、BBC、Le Monde、El Pais、Deutsche Welle、New York Sun(NYユダヤ系新聞)、Jersalem Post、The Daily Star(レバノン紙)、Al Jazeera、シリアやイランなど、それぞれのメディアが、それぞれの政治動向や世論の動き、op-edを載せるので、それら各国の政治動向、論調や批 判記事を追う。また、安保理に毎回、状況を報告をしている事務次長(平和維持活動担当)の発言や記者会見も引用されるので、そちらも漏らさず追う。政局に 合わせてイスラエルやレバノン政府から出されるstatements、記者会見や談話や声明、各ミッションから届く、コード・ケーブルにも目を通す。毎 日、media monitoring reports を作るほか、fact-finding researchesをする。
同時に、約20ほどある他のPKOミッションに関する記事もモニターする。レバノンに関する膨大な記事に目を通したあとは、コンゴ、スーダン、グルジア、コソボ、東ティモール、ハイチなど、それぞれ派遣されているミッションや政治状況についてモニターをする。毎正午には、事務総長報道官会見(Noon Briefing)もモニターする。PKOに関する記者との tensed なやりとりの note を作る。
7月末、peacekeepers 4人がイスラエル軍による攻撃で 殺された。その直後には、コンゴで初の民主選挙が実施された。アフリカの大戦と呼ばれ、何カ国もの利害が複雑に絡み合った内戦-大戦に、歴史的終止符を打 つ記念的な選挙にも、メディアのアテンションを振り向けるため、Lebanon危機でうずうずしているジャーナリストを前に、事務次長自らによる記者会見 を30分ほど行う。事務総長もハイチへの訪問を取りやめない。同時多発的な国連のマルチ・タスクに舌を巻きつつ、最近は掃いて捨てるほど毎日各国から沸き 出てくる国連平和維持活動に関する記事の膨大さを、事務次長室 (USG Office) のために、一人で追うことにプレッシャーを感じ、少しくたびれてきた。でも、面白い。この simultaneous multiple attentions の ethic こそ、ずっとmass-mediaで探していたものだったと思う。
Tuesday, July 18, 2006
73. Internship at DPKO, USG Office
先週月曜日から、国連平和維持活動局 事務次長室 メディア・渉外担当官のもとでの、インターンが始まりました。平和維持活動とJean-Marie Guehenno事務次長に関するメディア・モニタリングを中心に、マスコミ対応のほか、渉外活動の仕事も手伝うことになっています。国連本部37階の雰囲気は、とても静かで落ち着いているぶん、緊張してしまいます。先日は、イアン・マーティンに間近で微笑みかけられ、卒倒しそうになりました。
ニュースのモニタリングは、NHK時代とUNDP東ティモール時代もやっていたことなので、なんとかこなせそうです。まずは、レバノンがブレイク・アウトしたので、しばらくはそれを中心に追うことになりそうです。混乱があった東ティモールでは、先週、新内閣が発足しました。コンゴでは、月末に選挙があります。週に3日は、朝6時起き。頑張ります…。
ニュースのモニタリングは、NHK時代とUNDP東ティモール時代もやっていたことなので、なんとかこなせそうです。まずは、レバノンがブレイク・アウトしたので、しばらくはそれを中心に追うことになりそうです。混乱があった東ティモールでは、先週、新内閣が発足しました。コンゴでは、月末に選挙があります。週に3日は、朝6時起き。頑張ります…。
Monday, July 17, 2006
72. Cambodian Wedding Ceremony... Congrats!!
UNDP東ティモール事務所時代のボスであり、その後もいろいろと面倒を見てくれたSが、DCで結婚式を挙げました。心より、おめでとう!
Dear C & S,
Happy Wedding! I just wanted to extend all congratulatons from our ex-colleagues in Timor-Leste to you through this page.
Dear Colleagues in Dili and other parts of the world,
It was a wonderful wedding ceremony. Please join me to cerebrate him and his wife.
Wishing you the best,
http://www.nytimes.com/2006/07/09/fashion/09LIM.html
http://csua.berkeley.edu/~sophal/
Dear C & S,
Happy Wedding! I just wanted to extend all congratulatons from our ex-colleagues in Timor-Leste to you through this page.
Dear Colleagues in Dili and other parts of the world,
It was a wonderful wedding ceremony. Please join me to cerebrate him and his wife.
Wishing you the best,
http://www.nytimes.com/2006/07/09/fashion/09LIM.html
http://csua.berkeley.edu/~sophal/
Sunday, July 16, 2006
71. Refreshed at Mexico!
Thursday, June 1, 2006
70. Appreciating Motherhood
遅らばせながら、母の日について。
ちょっと手相を知っている人に、私の右手を見てもらうと、毎回絶句され、なんとなくその場をごまかされ る。…なんか怪しい、とかねがね思っていた。私は、特に占いというものを信じてもいないので、これまであまり気にしていなかったが、でもやはり気になる。 先日、近所のJASマートのレジの側に、手相占いの特集を載せていた雑誌があったので、つい手が伸びて買ってしまった。そして、知ってしまった。私の生命 線は、ものすごく短い! 35~40歳以降は、かすかな線が途切れ途切れに薄くあるのみ。そうか、私も余命あと5年ということか。何しようかな…。それに しても、私の感情線が太いのはわかる気もするが、頭脳線もこんなに太くしっかりしているのに、頭が悪いのは何故だろう。あの成績とはどうもmatchしな い。…うーん、やはり手相は、信じるに値しない。
先日、母の日に、実家に電話をした。今年も会えないし親孝行もできていないので、赤い カーネーションの花束を贈っておいた。(今は、どこの国にいても、楽天から簡単に注文できる。何て便利な時代だ。)母は、この20年近く、幾つになっても 少女のような可憐さで、畑を耕し、自宅で子供に勉強を教えている。素朴でありながら、天下一品の母である。
母は、農家の生まれで、5人兄 弟姉妹の4番目。10歳の頃に父親を病気で亡くし、相次いで13歳のときに母親も高血圧で亡くした。後には、5人の子供が残った。幸い、土地があったので 生計は成り立ち、長女だった母の姉が高校を辞めて家を切り盛りして、兄弟姉妹5人で力を合わせて生きてきたそうだ。
私が中学生の頃、母に とって、母親代わりであり、ロール・モデルであった姉(私の叔母)も、また突然の事故で亡くしてしまった。その後の母は、しばらくおぼろげな様子だった。 その間、兄と私の思春期や反抗期にあいながらも、実は一人で見えない母親像を模索しながら、必死で子育てと仕事を両立させていたのだろう。
… と、私が気付いたのは、ごく最近になってからである。我が旧友たちが、次々に母親になっていく姿を見るにつけ、子育てと仕事の両立の難しさや、母親にとっ ての母親の存在の重要性をかいま見る。そして、はじめて私も母の気持ちに気付いた。母は必死だったにちがいない。どうしてもっと早くそれに気付いてあげら れなかったんだろう、と思う。
この30年間、我が母と娘の私の二人で、休日などに一緒に出かけたことは、数えるほどしかない。私が、紫陽 花祭りが綺麗よ、梅祭りがあるわよ、見せたい映画やコンサートがあるのと誘っても、決して私とは一緒には来てくれない。理由を聞くと、「昔、母と娘でお出 かけしている人たちを見るのがいやだった、いつも羨ましくて哀しい想いをしたから、その時の気持ちを、あなたにも理解してほしいの、あなただけが理解でき ることなのよ」と言う。もう充分寂しい気持ちはわかった、だからこそこれからは母娘の二人で一緒に楽しい思い出を作りに行きましょうよ、と言っても、これ がなかなか難しい。NYまで訪ねに来てもらうには、それこそ至難の業である。この1年半、公園も河沿いも綺麗よ、卒業式も感動的よと、日々口説いている が、仕事もあるので実現するかどうかはわからない。
先日、また懲りずに口説きに実家に電話をした。すると、母の母の命日で、お墓参りに 行ってきたんだと言う。「あなたには、大人になってからも相談できる母親がいてあげられるように、お母さん、これからも長生きするわね。」…うーん、泣か せる。私も、母のために必ず長生きするわね。なかなか傍にいてあげられなくて、ごめんなさい。NY、訪ねに来てね。東ティモールにもガーナにも呼べなかっ たから。この先、スーダンとかリベリアに万が一行くことがあっても、来られないだろうし。私も親孝行したいの。(このブログだってちっとも見ていないみた いだし。まあ、親に見せられるような内容を書いていないけれど。)ずっとどうもありがとう。
ちょっと手相を知っている人に、私の右手を見てもらうと、毎回絶句され、なんとなくその場をごまかされ る。…なんか怪しい、とかねがね思っていた。私は、特に占いというものを信じてもいないので、これまであまり気にしていなかったが、でもやはり気になる。 先日、近所のJASマートのレジの側に、手相占いの特集を載せていた雑誌があったので、つい手が伸びて買ってしまった。そして、知ってしまった。私の生命 線は、ものすごく短い! 35~40歳以降は、かすかな線が途切れ途切れに薄くあるのみ。そうか、私も余命あと5年ということか。何しようかな…。それに しても、私の感情線が太いのはわかる気もするが、頭脳線もこんなに太くしっかりしているのに、頭が悪いのは何故だろう。あの成績とはどうもmatchしな い。…うーん、やはり手相は、信じるに値しない。
先日、母の日に、実家に電話をした。今年も会えないし親孝行もできていないので、赤い カーネーションの花束を贈っておいた。(今は、どこの国にいても、楽天から簡単に注文できる。何て便利な時代だ。)母は、この20年近く、幾つになっても 少女のような可憐さで、畑を耕し、自宅で子供に勉強を教えている。素朴でありながら、天下一品の母である。
母は、農家の生まれで、5人兄 弟姉妹の4番目。10歳の頃に父親を病気で亡くし、相次いで13歳のときに母親も高血圧で亡くした。後には、5人の子供が残った。幸い、土地があったので 生計は成り立ち、長女だった母の姉が高校を辞めて家を切り盛りして、兄弟姉妹5人で力を合わせて生きてきたそうだ。
私が中学生の頃、母に とって、母親代わりであり、ロール・モデルであった姉(私の叔母)も、また突然の事故で亡くしてしまった。その後の母は、しばらくおぼろげな様子だった。 その間、兄と私の思春期や反抗期にあいながらも、実は一人で見えない母親像を模索しながら、必死で子育てと仕事を両立させていたのだろう。
… と、私が気付いたのは、ごく最近になってからである。我が旧友たちが、次々に母親になっていく姿を見るにつけ、子育てと仕事の両立の難しさや、母親にとっ ての母親の存在の重要性をかいま見る。そして、はじめて私も母の気持ちに気付いた。母は必死だったにちがいない。どうしてもっと早くそれに気付いてあげら れなかったんだろう、と思う。
この30年間、我が母と娘の私の二人で、休日などに一緒に出かけたことは、数えるほどしかない。私が、紫陽 花祭りが綺麗よ、梅祭りがあるわよ、見せたい映画やコンサートがあるのと誘っても、決して私とは一緒には来てくれない。理由を聞くと、「昔、母と娘でお出 かけしている人たちを見るのがいやだった、いつも羨ましくて哀しい想いをしたから、その時の気持ちを、あなたにも理解してほしいの、あなただけが理解でき ることなのよ」と言う。もう充分寂しい気持ちはわかった、だからこそこれからは母娘の二人で一緒に楽しい思い出を作りに行きましょうよ、と言っても、これ がなかなか難しい。NYまで訪ねに来てもらうには、それこそ至難の業である。この1年半、公園も河沿いも綺麗よ、卒業式も感動的よと、日々口説いている が、仕事もあるので実現するかどうかはわからない。
先日、また懲りずに口説きに実家に電話をした。すると、母の母の命日で、お墓参りに 行ってきたんだと言う。「あなたには、大人になってからも相談できる母親がいてあげられるように、お母さん、これからも長生きするわね。」…うーん、泣か せる。私も、母のために必ず長生きするわね。なかなか傍にいてあげられなくて、ごめんなさい。NY、訪ねに来てね。東ティモールにもガーナにも呼べなかっ たから。この先、スーダンとかリベリアに万が一行くことがあっても、来られないだろうし。私も親孝行したいの。(このブログだってちっとも見ていないみた いだし。まあ、親に見せられるような内容を書いていないけれど。)ずっとどうもありがとう。
Thursday, May 25, 2006
69. Bon Voyage ♪
時々Greeのレビューで、紹介している音楽について、いつも書きたいことがいろいろあるので、ブログでも公開することにする。最初は、こちらから。卒業生の皆さまへ贈る音楽です。
「Jet Stream - Winter Flight」(オムニバス・橋本徹選曲 /ユニバーサルクラシック/2003年)
「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。」というオープニングで始まるTOKYO FMのラジオ長寿番組「Jet Stream」。JALがスポンサーで「旅」をテーマに、1967年以来、約40年もの間、ジャズやボサノバをBGMに放送してきた。番組から出されたレコードやCDは、100枚以上にのぼる。中でも季節外れのこの一枚、Winter Flightは、カフェ・アプレミディで有名な橋本徹の、至極の選曲。ほんとにお勧め。私は擦り切れるほど聞き、本当に擦り切れてしまったので、今は手元にCDがないのが残念。
「Jet Stream」-1967年以来約25年間、初代パーソナリティ(フライト・ナビゲーター)を務めた声優の城達也は95年に亡くなり、その後最近では伊武 雅刀などがナビゲーターを務めている。海外旅行が夢や憧れだった時代から約40年、単独スポンサーを続けてきたJALと、城のこの番組に対する思い入れは 強いらしく、海外へ思いを馳せる貴重な番組として長く続いてきた。様々なエピソードについては、Wikipediaが詳しい。
「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。それは人々が自由に心の旅を繰り広げる時間。ロンドン、パリ、北京、ミラノ、ニューヨーク、パリ・・・人が何を想い、どんな恋をしているのでしょうか。
遠 い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。満点の星をいた だくはてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂(しじま)の、何と饒舌なことでしょうか。光と影の 境に消えていったはるかなる地平線も瞼に浮かんでまいります。
あなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム、皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは城達也。 ...」
声優・城達也の、あの低く響く、渋く美しい声が、今にも蘇るようである。毎回、このオープニングやエンディングと共に、音楽と各都市が紹介される。
旅 立たれる卒業生の皆様、改めて、ご卒業心よりおめでとうございます。人生は旅とも言いますから。次なる目的地は、お決まりですか。離陸準備は、順調に進ん でいますか。SIPAで国際関係・公共政策を学ぶ授業の中で、各国にトランジットしながら、卒業へと向かったこの2年間のフライトが、貴方の素敵な想い出 となりますように。次の飛行もまた、心地よい音楽に載せて、楽しいものとなりますように。現実の社会に戻り、またあの冷たい雨や嵐、乱気流に見舞われるこ ととなっても、責任やプレッシャー、家族や孤独という名の重い乗客を乗せていても、どうか物ともせず、いつも心に静けさと音楽を響かせ、目的地に向かって 安全な飛行を続けてください。一年半、とってもお世話になりました。有難うございます。それぞれに新しい旅先でのご活躍をお祈りしています。
Bon Voyage ♪
「Jet Stream - Winter Flight」(オムニバス・橋本徹選曲 /ユニバーサルクラシック/2003年)「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。」というオープニングで始まるTOKYO FMのラジオ長寿番組「Jet Stream」。JALがスポンサーで「旅」をテーマに、1967年以来、約40年もの間、ジャズやボサノバをBGMに放送してきた。番組から出されたレコードやCDは、100枚以上にのぼる。中でも季節外れのこの一枚、Winter Flightは、カフェ・アプレミディで有名な橋本徹の、至極の選曲。ほんとにお勧め。私は擦り切れるほど聞き、本当に擦り切れてしまったので、今は手元にCDがないのが残念。
「Jet Stream」-1967年以来約25年間、初代パーソナリティ(フライト・ナビゲーター)を務めた声優の城達也は95年に亡くなり、その後最近では伊武 雅刀などがナビゲーターを務めている。海外旅行が夢や憧れだった時代から約40年、単独スポンサーを続けてきたJALと、城のこの番組に対する思い入れは 強いらしく、海外へ思いを馳せる貴重な番組として長く続いてきた。様々なエピソードについては、Wikipediaが詳しい。
「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。それは人々が自由に心の旅を繰り広げる時間。ロンドン、パリ、北京、ミラノ、ニューヨーク、パリ・・・人が何を想い、どんな恋をしているのでしょうか。
遠 い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。満点の星をいた だくはてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂(しじま)の、何と饒舌なことでしょうか。光と影の 境に消えていったはるかなる地平線も瞼に浮かんでまいります。
あなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム、皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは城達也。 ...」
声優・城達也の、あの低く響く、渋く美しい声が、今にも蘇るようである。毎回、このオープニングやエンディングと共に、音楽と各都市が紹介される。
旅 立たれる卒業生の皆様、改めて、ご卒業心よりおめでとうございます。人生は旅とも言いますから。次なる目的地は、お決まりですか。離陸準備は、順調に進ん でいますか。SIPAで国際関係・公共政策を学ぶ授業の中で、各国にトランジットしながら、卒業へと向かったこの2年間のフライトが、貴方の素敵な想い出 となりますように。次の飛行もまた、心地よい音楽に載せて、楽しいものとなりますように。現実の社会に戻り、またあの冷たい雨や嵐、乱気流に見舞われるこ ととなっても、責任やプレッシャー、家族や孤独という名の重い乗客を乗せていても、どうか物ともせず、いつも心に静けさと音楽を響かせ、目的地に向かって 安全な飛行を続けてください。一年半、とってもお世話になりました。有難うございます。それぞれに新しい旅先でのご活躍をお祈りしています。
Bon Voyage ♪
Tuesday, May 9, 2006
68. UN Security Council - "Fragile Peace, Timor-Leste on the Edge"



5 月5日に東ティモールに関する国連安全保障理事会公開協議が開かれたので、傍聴してきました。当日は、先の3月に東ティモールを訪れた女優の藤原紀香さん が、国連本部内で写真展を開いていらっしゃいました。秋にももっと大きな写真展が開催されるようです。下記に、国連フォーラムに投稿した傍聴報告を転載し ます。(今回、5月5日の安保理協議の詳細についてはプレス・リリースを、UN News からも、短くまとまった記事が出ていますので、ご関心のある方は、そちらもご参照ください。また、先日の暴動については、BBCの記事と写真を参照ください。)(上記写真は、1月の安保理協議の際のもの。)
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今 回の安保理協議では、現行の国連ミッション・国連東ティモール事務所(UNOTIL)の期限が切れる5月20日を前に開かれました。しかし、先々週に突 如、首都ディリで起きた暴動を受けて、安保理協議も当初の予定とは異なる展開となりました。 事務総長報告が提出された4月20日の時点では、長谷川特別代表(SRSG)からUNOTIL mandates履行の最終報告と、新しく、規模を大幅にダウンサイズした "integrated UN Office" 設立の検討が、今回の安保理で為される予定でした。しかし5月5日当日は、先の暴動を受け、国連ミッションの exit strategy の再検討が協議されました。
今回注目されたのは、以下の3つのポイントです。
1)暴動の経緯(長谷川国連代表と、ラモス・ホルタ東ティ外相の報告)
2)今後の対応(主要ドナー、日・ポ・豪と、P5、米・仏・英などの発言)
3)Root causes(長谷川代表の返答)
代 表の報告によると、先々週の4月下旬に東ティモールの首都ディリで起きた暴動では、少なくとも5人が死亡、60人以上が投石や発砲で怪我をし、1万人以上 が首都中心街から山へ避難する事態となりました。暴動に至った直接の経緯については、3月中旬に軍を解雇された約600人の元兵士が、解雇理由の開示と独 立調査を求めて、4日間、平和的デモを実施したことが発端。しかしその後、状況に乗じた「元兵士以外の」若者や政治分子が、政府庁舎を攻撃しはじめ、暴力 に発展。東ティ警察は暴動を取り締まることができずに軍が出動し、今回の事態に至った、との報告がなされました。
このような暴動が東ティ モールで起きたのは4年ぶりで、2002年5月の国家独立から半年後に、デモに参加した学生2人が亡くなる騒ぎがあって以来になります。新国家・東ティ モールでは、独立後も、国連をはじめとする国際社会に、その生まれたてで脆弱な民主主義を支えられながら、順調に平和への道を歩んでいたところでした。独 立後は、UNOTILやUNMISET、国連諸機関や国際社会の支援を通じ、行政・司法分野における組織・制度構築や人材育成、元独立兵士や避難民のコ ミュニティ再統合、保健衛生や教育の分野で、目覚しい努力を果たし、荒廃から立ち直ってきた矢先でした。国連の規模も少しずつ縮小し、「平和構築の成功 例」と称されていただけに、突然の事態の転換について、衝撃を受ける方も少なくないと思います。
「紛争を経験した社会の半数以上が、5年 以内に再び紛争状態に戻りやすい」というテーゼを裏書きするかのごとく、東ティモールでも今回の事態が起きました。国家独立に至るまでに多くの犠牲を払 い、暴力を経験してきた、トラウマを抱える東ティモールにとって、完全に平和が定着するまでの道のりは、まだまだ長いようです。ラモス・ホルタ外相はその 報告の中で、"Dili was on the edge; fear was palpable among people already traumatized from past violence"と述べているとおり、東ティモールは、現在、岐路に立たされています。
続 く安保理理事国の発言では、ボルトン大使も姿を見せた米国が、「現UNOTILを1ヶ月延長し、現地の事態が沈静した後、安保理で状況判断する」と提言。 一方、仏・英が今回の事態を重く見ているのに対し、主要ドナーである日・豪は、「平和構築の一過程」と、比較的慎重な姿勢を見せていたのが、印象的でし た。また、旧宗主国のポルトガルは、故セルジオ・デメロの過去の功績と、近い将来入ってくる石油収入にも触れ、東ティモールの事例が国連の絶対的な役割と してこれまでメディアやアカデミアで引用されてきた中、国連は、今後も世界で最も新しい国の"fragile democracy"を支え、平和を定着させていくべきであると、まとめています。
理事国の発言が一巡した後、 最後に、長谷川代表がアルゼンティンのコメントに答える形で、今回の暴動のroot causesについて下記の3つ挙げ、5日の協議が終了しました。
i) institutional incapability to address grievances, due to lack of viable policies regarding human resources management, mostly in the armed forces;
ii) poverty and unemployment, particularly among the youth, who had nothing, nothing to lose; and
iii) the mindset of certain interest groups with a propensity to resort to violence and incite the population for the purpose of increasing their political influence.
今後の対応策として、1)人事政策を含む、組織管理能力の強化(特に軍)、2)若者の失業対 策、3)暴力手段に対応する警察能力の強化と教育、などが考えられます。いずれにせよ、荒廃から始まった国造りの支援と平和の定着には、長期的計画とコ ミットメントが必要のようです。 5月20日のUNOTIL mandates期限終了を前に、今後、決議採択の行方が注視されるところです。
尚、 余談になりますが、今回の安保理協議開催に合わせて、去る3月に東ティモールを訪れた女優の藤原紀香さんが、国連本部内で写真展を開いていらっしゃいまし た。( メディアでも報道されています。) お仕事のお忙しい合間を縫って、安保理傍聴席にも訪れ、真摯に協議に耳を傾けていた姿が印象的でした。
最後に、簡潔で印象深かった、シンガポールの発言を引用します。
"This is about commitment," he said, adding: "We should not jeopardize what we have achieved so far in Timor-Leste." The phrase "penny wise, pound foolish" had come to mind, especially given statistics showing how easily societies that had experienced civil strife could return to those situations. Everyone spoke about successful peacebuilding. This was an opportunity for the international community to remain involved and help ensure continued success."
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Wednesday, May 3, 2006
67. Ethical issue??
今学期最後の授業が、月曜日に終わりました。最後の授業は、AuditしているMichael Dolye先生の"Topics in International Ethics"。今学期(そして恐らくSIPA在学中)、最も印象深く、また最も質の高い教授と授業内容でした。毎回クラスでは、先生が淡々と重いテーマ を学生に提示し、PhDの学生数人も含めた20人ほどの受講生で濃いディスカッションが繰り広げられます。毎度テーマが重過ぎて、私は授業後もしばらく数 日、なかなか消化しきれなくなってしまうのですが、最後の授業も多分に漏れず重い課題でした。前回二回、international distributionの回で、経済格差の不平等と分配の問題について議論したのち、5月1日に最終回を迎えました。
「何故、リアリス トは、国内法で人々に人権と機会の平等を保障しているのにもかかわらず、一歩国の外のことになると、飢餓や殺戮にさらされている人々を見過ごし、何もしな いでも倫理的に済まされるのか。」「"Decent"といわれる国々の人々は、飢餓や殺戮にさらされている"burdened"に対し、その場凌ぎの "Aid Assistance"をすることで気を済ませているが、何故、(根本的な解決をするために、)国内で保障する人権と平等について、国際社会の中では責任 を追わなくても倫理的に許されるのか。」
リアリストに挑戦するリベラリストの倫理的問いに対して、リアリストの答えは、先生によれば、 「人権を守るとは尊厳を守ることだが、尊厳の与え方(dignify)は文化によって異なるのでタッチしないでもいい、という言い訳がつく」 (cultural differences)。また、「目の前で瀕しているのでなければ、特に関わる責任も生じないと感じ、良心の呵責に苛まれることもなく、干渉しないとい う選択をとる」(self-determination/self-deffence)。という、二つがあるのでは、とのこと。皆さま、いかがでしょう。
つ くづく思ったのは、国際社会で急速に広がっていく格差や不平等の問題について、開発経済学などで「どのように是正していくか?」ということが広く学ばれる ことはあっても、その前提となる「なぜ是正しなければならないのか?」という根本的倫理的議論が、これまで抜け落ちてきたのだと気付きました。同級生や学 外の人と話していると、何故日本はアフリカに関わらなければならないのか、 とよく聞かれます。何故、他人事の貧困削減に、日本を含めた国際社会が取り組まなければならないのか、国内だって大変な状況なのに何故ODAを GNP0.7%まで上げる必要があるのか、国民になんて説明するのか、何故スーダンに自衛隊を派遣しなければならないのか。Let them fight among themselves! などなど…。
確かに、日本にとってアフリカは、地理的にも遠い、歴史的責任もない。し かし、アフリカの惨状を解決することは、グローバル化後貿易などで相互に依存しあい恩恵を享受する国際社会が、急務の課題として取り組んでいる共通の問 題。実際、安保理で話し合われる議題の6.5割は、アフリカについてです。2001年9/11以降は、前にも述べたとおり、貧困がテロの温床となるという 安全保障との深い繋がりが認識されるに至り、米は対アフリカ援助額を4倍近くに、仏も3倍以上にあげています。(主要国の援助額推移グラフ) 対アフリカ問題の取り組みは、国際社会の平和と安定のための戦略と位置づけてられているからです。日本は国際社会の一員として、恩恵を受けている限り、問 題の解決に対する責任があるのだと思います。…といっても、なかなか実感として沸かないのが普通のようです。でも、今回の小泉首相のアフリカ訪問もそう いった背景があると思います。
私が公共政策を勉強したかった理由のひとつは、国内の公共政策の考え方や政策を、どのように国際公共政策に 汎用させるのか、考えてみたかったこともあります。(が、そのような勉強は全くできず、リアリスト集団の中で喘ぐだけでした。)国内では、税金や社会福祉 政策による富の再分配・所得再分配が政策の中で実施されているが、国際社会には税金などない。1年間、経済の仕組みを勉強しましたが、これでは格差が広 がっていくばかりで、是正に向けた解決策とはならない、と理解しました。(間違ってるかしら。)
微々たる援助や経済成長をしたところで、 到底、平和と安定のための再分配には及ばない。要するに、南北の不均衡と不平等の問題を解消しよう、機会の平等と人権を保障しようという、国際社会の「政 治的意思(political will)」が足りないことが問題である、と、リベラリスト・Doyle先生は"ethics"と銘打つ授業の中で伝えたかったのでは、と思い至りました が、どうでしょう。"Responsibility to protect"の掲げる国際社会の責任の概念が、人道的罪の阻止のみではなく、国際人権や機会の平等の保障へも、幅広く浸透していくよう、いずれ理論の 構築が為されていく必要があるように思いました。
余談ですが、もうひとつDoyle先生の授業の中で印象に残っているの は、Wars and Massacresの回でもあります。その週は忙しくて予習できず、題名だけ見て「ルワンダかダルフールのことかしら~」なんて暢気に授業に出たところ、 最初から最後まで広島・長崎の原爆投下の是非が話し合われました。(「Wars and Massacres」と聞いて他人事と思っていた、己の認識不足と準備不足を、深く恥じました。)
20人近い受講生のうち、日本人は外交 官T君と私の2人のみ。ディスカッションになると、学生から次々に「ソ連の侵攻を防ぐには仕方なかった」「日本兵のアジアにおける女子供相手の蛮行を考え れば、日本人の女子供が原爆の対象となるのも当然の報いである」「結果オーライでしょう」という意見が旋風し、私が隅の方で一人わなわな震えていると、T が「本当にlast resortだったのか?」「2つ目の投下は本当に必要だったか?」などの意見を出しましたが、あまり反応はない。
Doyle 先生は最後に、「他に戦争を止めさせる手段があったとすれば何か」と問うていましたが、特に目立った答えはなく、逆に「原爆投下後も当時の戦時内閣の半分 以上は戦意を喪失していなかった」とたたみかけられました。戦後にできた国際人道法(いわゆる戦争法)は、日本やドイツの戦時行為を防げなかった反省をも とに作られたことも、後に別の授業で学びました。遅らばせながら、米国で国際関係学を学ぶ洗礼(もしくはSIPAの洗礼)を、浴びたようにも思います。 もっと理論武装できるだけの知識を、国内で学びたかったとも思いました。
さて、そんなDoyle先生も、来学期から1年、サバティカル へ。先生が秋学期に通常開講しているPKOの授業がとれないのは、残念でなりませんが、少なくともこの授業で、SIPAに来て心より良かったと思える偉大 な先生に出会えたことは、本当に幸運でした。勧めてくれた同級生方、そして授業後の消化不良解消に時々付き合ってくれたT君、どうも有難う。
そういえば、そろそろ小泉さんがガーナを訪問中の頃でしょうか。この8~9年、ぶーぶー文句を垂れてきた私にとって、ちょっと感慨深いものがあります。時代は変わるものよのう…。
ところで、もう一人の偉大なる先生、Madam Lindenmayerについては、また次回。
「何故、リアリス トは、国内法で人々に人権と機会の平等を保障しているのにもかかわらず、一歩国の外のことになると、飢餓や殺戮にさらされている人々を見過ごし、何もしな いでも倫理的に済まされるのか。」「"Decent"といわれる国々の人々は、飢餓や殺戮にさらされている"burdened"に対し、その場凌ぎの "Aid Assistance"をすることで気を済ませているが、何故、(根本的な解決をするために、)国内で保障する人権と平等について、国際社会の中では責任 を追わなくても倫理的に許されるのか。」
リアリストに挑戦するリベラリストの倫理的問いに対して、リアリストの答えは、先生によれば、 「人権を守るとは尊厳を守ることだが、尊厳の与え方(dignify)は文化によって異なるのでタッチしないでもいい、という言い訳がつく」 (cultural differences)。また、「目の前で瀕しているのでなければ、特に関わる責任も生じないと感じ、良心の呵責に苛まれることもなく、干渉しないとい う選択をとる」(self-determination/self-deffence)。という、二つがあるのでは、とのこと。皆さま、いかがでしょう。
つ くづく思ったのは、国際社会で急速に広がっていく格差や不平等の問題について、開発経済学などで「どのように是正していくか?」ということが広く学ばれる ことはあっても、その前提となる「なぜ是正しなければならないのか?」という根本的倫理的議論が、これまで抜け落ちてきたのだと気付きました。同級生や学 外の人と話していると、何故日本はアフリカに関わらなければならないのか、 とよく聞かれます。何故、他人事の貧困削減に、日本を含めた国際社会が取り組まなければならないのか、国内だって大変な状況なのに何故ODAを GNP0.7%まで上げる必要があるのか、国民になんて説明するのか、何故スーダンに自衛隊を派遣しなければならないのか。Let them fight among themselves! などなど…。
確かに、日本にとってアフリカは、地理的にも遠い、歴史的責任もない。し かし、アフリカの惨状を解決することは、グローバル化後貿易などで相互に依存しあい恩恵を享受する国際社会が、急務の課題として取り組んでいる共通の問 題。実際、安保理で話し合われる議題の6.5割は、アフリカについてです。2001年9/11以降は、前にも述べたとおり、貧困がテロの温床となるという 安全保障との深い繋がりが認識されるに至り、米は対アフリカ援助額を4倍近くに、仏も3倍以上にあげています。(主要国の援助額推移グラフ) 対アフリカ問題の取り組みは、国際社会の平和と安定のための戦略と位置づけてられているからです。日本は国際社会の一員として、恩恵を受けている限り、問 題の解決に対する責任があるのだと思います。…といっても、なかなか実感として沸かないのが普通のようです。でも、今回の小泉首相のアフリカ訪問もそう いった背景があると思います。
私が公共政策を勉強したかった理由のひとつは、国内の公共政策の考え方や政策を、どのように国際公共政策に 汎用させるのか、考えてみたかったこともあります。(が、そのような勉強は全くできず、リアリスト集団の中で喘ぐだけでした。)国内では、税金や社会福祉 政策による富の再分配・所得再分配が政策の中で実施されているが、国際社会には税金などない。1年間、経済の仕組みを勉強しましたが、これでは格差が広 がっていくばかりで、是正に向けた解決策とはならない、と理解しました。(間違ってるかしら。)
微々たる援助や経済成長をしたところで、 到底、平和と安定のための再分配には及ばない。要するに、南北の不均衡と不平等の問題を解消しよう、機会の平等と人権を保障しようという、国際社会の「政 治的意思(political will)」が足りないことが問題である、と、リベラリスト・Doyle先生は"ethics"と銘打つ授業の中で伝えたかったのでは、と思い至りました が、どうでしょう。"Responsibility to protect"の掲げる国際社会の責任の概念が、人道的罪の阻止のみではなく、国際人権や機会の平等の保障へも、幅広く浸透していくよう、いずれ理論の 構築が為されていく必要があるように思いました。
余談ですが、もうひとつDoyle先生の授業の中で印象に残っているの は、Wars and Massacresの回でもあります。その週は忙しくて予習できず、題名だけ見て「ルワンダかダルフールのことかしら~」なんて暢気に授業に出たところ、 最初から最後まで広島・長崎の原爆投下の是非が話し合われました。(「Wars and Massacres」と聞いて他人事と思っていた、己の認識不足と準備不足を、深く恥じました。)
20人近い受講生のうち、日本人は外交 官T君と私の2人のみ。ディスカッションになると、学生から次々に「ソ連の侵攻を防ぐには仕方なかった」「日本兵のアジアにおける女子供相手の蛮行を考え れば、日本人の女子供が原爆の対象となるのも当然の報いである」「結果オーライでしょう」という意見が旋風し、私が隅の方で一人わなわな震えていると、T が「本当にlast resortだったのか?」「2つ目の投下は本当に必要だったか?」などの意見を出しましたが、あまり反応はない。
Doyle 先生は最後に、「他に戦争を止めさせる手段があったとすれば何か」と問うていましたが、特に目立った答えはなく、逆に「原爆投下後も当時の戦時内閣の半分 以上は戦意を喪失していなかった」とたたみかけられました。戦後にできた国際人道法(いわゆる戦争法)は、日本やドイツの戦時行為を防げなかった反省をも とに作られたことも、後に別の授業で学びました。遅らばせながら、米国で国際関係学を学ぶ洗礼(もしくはSIPAの洗礼)を、浴びたようにも思います。 もっと理論武装できるだけの知識を、国内で学びたかったとも思いました。
さて、そんなDoyle先生も、来学期から1年、サバティカル へ。先生が秋学期に通常開講しているPKOの授業がとれないのは、残念でなりませんが、少なくともこの授業で、SIPAに来て心より良かったと思える偉大 な先生に出会えたことは、本当に幸運でした。勧めてくれた同級生方、そして授業後の消化不良解消に時々付き合ってくれたT君、どうも有難う。
そういえば、そろそろ小泉さんがガーナを訪問中の頃でしょうか。この8~9年、ぶーぶー文句を垂れてきた私にとって、ちょっと感慨深いものがあります。時代は変わるものよのう…。
ところで、もう一人の偉大なる先生、Madam Lindenmayerについては、また次回。
Sunday, April 23, 2006
66. Gala
先週月曜日に、経済のグループ・プレゼン「自由貿易とアフリカ」が終わる。Yのwisdomにより、何故アフリカがFree Tradeの恩恵を受けられないのかについてミクロ分析したあと、タイ出身のNと、先日のWTOで日本が途上国にも提唱した一村一品キャンペーンを紹介し、タイやアジアでの成功例をアフリカへと締めくくった。苦手の経済だが、Yのおかげで理解も深まった。本当にどうも有難う。翌日には、UNDP新総裁のKemal Dervisが、 SIPAに講演に来たので、連日の徹夜明けだったが眠い目をこすって参加。新総裁ということで、どんな人か楽しみにしていったが、世銀出身・元トルコ蔵相 のエコノミストらしい、硬い話に終始した。UNDPの最大の使命のひとつである貧困削減について語り、経済発展に伴う格差と不平等の是正には、経済政策だ けでなく、ガバナンス(institutional development)が重要であるとも強調。その他貿易についてなど一部、経済のプレゼンと内容も多少かぶっていたところもあったので、大変興味深 かった。もっと勉強しなくては、いけません…。
翌日水曜日には、授業の合間を縫って、米国連大使ボルトンが来SIPA講演を聞きに行く。 参加登録をしていなかったので、当日waiting listに並んでいたら、なんと開演ぎりぎりになって、最後まで空いていたボルトンの目の前の席(reserve席)で、彼を拝む破目になった。いやは や。こんな素晴らしい機会を、このおじさんのために使うだなんて。もっといい人のときに、いい席で聞きたかったかも…。講演では、現在交渉中の国連分担金 率について、「これからはGDPを、purchasing powerで計算するよう、僕は提案する、そうすれば中国は12%、日本は10%の分担になる」とのこと。目の前で延々と繰り広げられる、相変わらずのボ ルトン節を聞き流しながら、何故、彼は髭だけ真っ白なんだろうと眺めいっておりました。肝心の安保理改革については、たいした言質もとれず。翌々日の金曜 日には、PoPのグループ・プロジェクト、「安保理改革-日本とG4の攻防」のケース・ライティングを最終提出。やっと終わった~!いろいろな人にインタ ビューに行けて、振り返れば、とても楽しかった。先日の"Team Torture"に続き、こちらのグループは、その名のとおり、"G4"、K,T,A、どうも有難う! We are the best "Group 4"ね。これで、1単位しかもらえないなんて、ほんとにありえない。
金曜夜は、セントラル・パークのTavern on the Greenで 開催されたSIPA卒業パーティー・Galaへ。私の卒業までには、あともう一学期残っているけれど、一年半を過ごした同級生2年生の卒業のお見送りに。 また、ルームメイトを含め、一緒に春入学をした親しい何人かも3学期で終了させて卒業してしまうので、私にとっては少々感慨深い。みんな、おめでとう!
Gala 前、隣の部屋で、準備にお化粧にと、どたばたしているルームメイトとその友達を見て、私もそろそろ支度を始めなくちゃ、と思っていると、二人が気を利かせ て用意したシャンパンとケーキが…。思わぬ pre-Gala @ our apartment。いいルームメイトをもって、つくづく幸せである。乾杯後も、お互いまた、あっちのスカーフがいいかしら、この爪で大丈夫かしらと、あ れこれ大騒ぎして、お洒落して、もう一回乾杯して、写真を撮って、あとは会場でまた会おう!、と、街へ繰り出す。私も、着物姿や素敵なドレス姿の同級生 と、3人でセントラル・パークの会場へ向かう。
着くと、綺麗に着飾った同級生たちで溢れ返っている。羽織袴もいれば、リムジンで来たメン バーも。あっという間の華やかなひと時を過ごし、2時半ごろ帰宅。総じて、楽しかった! 不思議なことに、NYでは学生だからか、これまでこういった華や かな場がほとんどなかった。東京やフィールドでは、何かと結婚式やら送別会やら来賓イベントやら何やらがあったのに。だから週末は、勉強も将来のことも忘 れて、久しぶりの自由で華やな雰囲気を、充分楽しんだ。独身でいて、自分の道を歩いてこれて、自由を謳歌できて、本当によかったと、なんとなく思ってし まった。
けれど、途中でカメラを紛失したことに気付く。あーあ。また、やってしまった…。今度は見つからないかな…。なので、写真はあり ません。そして、家に帰れば、二日酔いと、ペーパー20ページと25ページと、その他諸々の現実が待っていた…。本当に、終わるのかなー…。えー、昨晩の フォーチュン・クッキーから。"Over every mountain there is a path, although it may not be seen from the valley."
…見えない。 深い谷の合間にいるみたい。
翌日水曜日には、授業の合間を縫って、米国連大使ボルトンが来SIPA講演を聞きに行く。 参加登録をしていなかったので、当日waiting listに並んでいたら、なんと開演ぎりぎりになって、最後まで空いていたボルトンの目の前の席(reserve席)で、彼を拝む破目になった。いやは や。こんな素晴らしい機会を、このおじさんのために使うだなんて。もっといい人のときに、いい席で聞きたかったかも…。講演では、現在交渉中の国連分担金 率について、「これからはGDPを、purchasing powerで計算するよう、僕は提案する、そうすれば中国は12%、日本は10%の分担になる」とのこと。目の前で延々と繰り広げられる、相変わらずのボ ルトン節を聞き流しながら、何故、彼は髭だけ真っ白なんだろうと眺めいっておりました。肝心の安保理改革については、たいした言質もとれず。翌々日の金曜 日には、PoPのグループ・プロジェクト、「安保理改革-日本とG4の攻防」のケース・ライティングを最終提出。やっと終わった~!いろいろな人にインタ ビューに行けて、振り返れば、とても楽しかった。先日の"Team Torture"に続き、こちらのグループは、その名のとおり、"G4"、K,T,A、どうも有難う! We are the best "Group 4"ね。これで、1単位しかもらえないなんて、ほんとにありえない。
金曜夜は、セントラル・パークのTavern on the Greenで 開催されたSIPA卒業パーティー・Galaへ。私の卒業までには、あともう一学期残っているけれど、一年半を過ごした同級生2年生の卒業のお見送りに。 また、ルームメイトを含め、一緒に春入学をした親しい何人かも3学期で終了させて卒業してしまうので、私にとっては少々感慨深い。みんな、おめでとう!
Gala 前、隣の部屋で、準備にお化粧にと、どたばたしているルームメイトとその友達を見て、私もそろそろ支度を始めなくちゃ、と思っていると、二人が気を利かせ て用意したシャンパンとケーキが…。思わぬ pre-Gala @ our apartment。いいルームメイトをもって、つくづく幸せである。乾杯後も、お互いまた、あっちのスカーフがいいかしら、この爪で大丈夫かしらと、あ れこれ大騒ぎして、お洒落して、もう一回乾杯して、写真を撮って、あとは会場でまた会おう!、と、街へ繰り出す。私も、着物姿や素敵なドレス姿の同級生 と、3人でセントラル・パークの会場へ向かう。
着くと、綺麗に着飾った同級生たちで溢れ返っている。羽織袴もいれば、リムジンで来たメン バーも。あっという間の華やかなひと時を過ごし、2時半ごろ帰宅。総じて、楽しかった! 不思議なことに、NYでは学生だからか、これまでこういった華や かな場がほとんどなかった。東京やフィールドでは、何かと結婚式やら送別会やら来賓イベントやら何やらがあったのに。だから週末は、勉強も将来のことも忘 れて、久しぶりの自由で華やな雰囲気を、充分楽しんだ。独身でいて、自分の道を歩いてこれて、自由を謳歌できて、本当によかったと、なんとなく思ってし まった。
けれど、途中でカメラを紛失したことに気付く。あーあ。また、やってしまった…。今度は見つからないかな…。なので、写真はあり ません。そして、家に帰れば、二日酔いと、ペーパー20ページと25ページと、その他諸々の現実が待っていた…。本当に、終わるのかなー…。えー、昨晩の フォーチュン・クッキーから。"Over every mountain there is a path, although it may not be seen from the valley."
…見えない。 深い谷の合間にいるみたい。
Thursday, April 13, 2006
65. End of Torture...
先日、長い間頭を悩ませていた、グアンタナモ模擬裁判と、スーダン・プレゼンが終わった。長らく気が重かったが、終えたあとの歓びはひとしお。直前までい ろいろアドバイスを下さったD,M,C、どうも有難う。そして、CAからNYに寄ってくれた中高時代の同級生Kも有難う。
国際人権法の授 業の課題だった、先週のグアンタナモについての模擬裁判は、間違いなく、SIPAでの特別な思い出となりそう。内容についていろいろいいたいことはある が、長くなりそうなので、いつか時間があれば書きたいとは思う。我がチーム・米政府擁護組4人は、気持ちを入れ替えてなりきるために、星条旗のバッジを胸 につけて臨んだ。アルカイダとそのサポーターがジュネーブ条約に適用しない理由、そして彼らを、国際法廷や民事法廷ではなく、軍事法廷で裁くことについて のlegitimacyを弁論する、という課題だった。もちろん、相手チーム4人のNGO側からの反論もある。裁判官役には、Danchin先生とNYU の先生、そして実際に9/11以降政府側の弁論をしていたlawyerの3人が並び、息をつくまもなくビシバシとlegal questionsを学生に投げかけてきた。
裁判が終わったあとは、私が、裁判官役の先生からの質問攻めに対し、最後うまく答えられな かったことを少々落ち込んでいたら、"The most important thing is that we've completed! You've done well. True! They came across difficult questions, because you made a good argument." とチームメイトに励まされて、浮上した。
一方、Conflict Assessmentの課題、スーダンについてのプレゼンの方は、ダルフールを入れるかどうか最後までいろいろ迷ったが、直前でなんとかまとめ、形になっ た。(直前までアドバイスをくれたC、どうも有難う!)こちらは、プレゼン後に25ページのペーパーを提出することになっている。
どちらも、授業の中で一人で英語のプレゼンをするのは初めてだったので、プレゼンが苦手な私にとっては、ずっと気が重かった。なんとか、こなしおわり、ほっとした。とても勉強になった。
こ れからの10日間も、しんどい。経済のグループ・プレゼンとペーパーと宿題が明日、PoP(Politics of Policy Making)の安保理改革とG4案についてのCase Writing 20ページ最終仕上げと国際人道法のペーパー5ページを金曜日までに、それからConflict Assessmentの授業でプレゼンしたスーダンについて25ページと、SC/PKO in Africaの授業のリサーチ・ペーパー20ページを次の週までに。それらを全部乗り越えると、無事、最終試験に辿りつける。
今週末は、 もうすぐ卒業していく同級生と国立公園に遊びに行きたかったが、泣く泣くあきらめ、山と積まれた残りの課題をこなすことにする。(でも昨晩は、二度目の SIPA Folliesを見に行った。個人的には昨年の方がおもしろかったけど、まあ今年もおもしろかった。今回は、無事に家に帰ってこられました。:)
神様、無事、いつか、今学期を終えることができますように。
国際人権法の授 業の課題だった、先週のグアンタナモについての模擬裁判は、間違いなく、SIPAでの特別な思い出となりそう。内容についていろいろいいたいことはある が、長くなりそうなので、いつか時間があれば書きたいとは思う。我がチーム・米政府擁護組4人は、気持ちを入れ替えてなりきるために、星条旗のバッジを胸 につけて臨んだ。アルカイダとそのサポーターがジュネーブ条約に適用しない理由、そして彼らを、国際法廷や民事法廷ではなく、軍事法廷で裁くことについて のlegitimacyを弁論する、という課題だった。もちろん、相手チーム4人のNGO側からの反論もある。裁判官役には、Danchin先生とNYU の先生、そして実際に9/11以降政府側の弁論をしていたlawyerの3人が並び、息をつくまもなくビシバシとlegal questionsを学生に投げかけてきた。
裁判が終わったあとは、私が、裁判官役の先生からの質問攻めに対し、最後うまく答えられな かったことを少々落ち込んでいたら、"The most important thing is that we've completed! You've done well. True! They came across difficult questions, because you made a good argument." とチームメイトに励まされて、浮上した。
一方、Conflict Assessmentの課題、スーダンについてのプレゼンの方は、ダルフールを入れるかどうか最後までいろいろ迷ったが、直前でなんとかまとめ、形になっ た。(直前までアドバイスをくれたC、どうも有難う!)こちらは、プレゼン後に25ページのペーパーを提出することになっている。
どちらも、授業の中で一人で英語のプレゼンをするのは初めてだったので、プレゼンが苦手な私にとっては、ずっと気が重かった。なんとか、こなしおわり、ほっとした。とても勉強になった。
こ れからの10日間も、しんどい。経済のグループ・プレゼンとペーパーと宿題が明日、PoP(Politics of Policy Making)の安保理改革とG4案についてのCase Writing 20ページ最終仕上げと国際人道法のペーパー5ページを金曜日までに、それからConflict Assessmentの授業でプレゼンしたスーダンについて25ページと、SC/PKO in Africaの授業のリサーチ・ペーパー20ページを次の週までに。それらを全部乗り越えると、無事、最終試験に辿りつける。
今週末は、 もうすぐ卒業していく同級生と国立公園に遊びに行きたかったが、泣く泣くあきらめ、山と積まれた残りの課題をこなすことにする。(でも昨晩は、二度目の SIPA Folliesを見に行った。個人的には昨年の方がおもしろかったけど、まあ今年もおもしろかった。今回は、無事に家に帰ってこられました。:)
神様、無事、いつか、今学期を終えることができますように。
Wednesday, March 22, 2006
Monday, March 13, 2006
63. AFS again... in NY.
昨晩、AFS日本協会・NY友の会懇親会に初めて出席してきた。日本協会東京事務 所でお世話になった職員の方をお迎えするというので、同世代との出会いでもあるかしらと期待していったら、団塊の世代のおじさま・おばさまばかりの中に、私一人ポツン と若輩者。JBIC審議役、代表部公使、民間企業の重役、在米法律家など、そうそうたるメンバーの中で、内心オロオロしながら、できるかぎり隅の方でお行儀よく大人しく、引きつった笑顔で座っていた。しかし、ちょうどいいところに若い女性が来た…と煽てられ、いい気になったところで、少しだけお手伝いする羽目になりそうである。
私が大学時代の4年間のほぼ全てを注ぎ込んだAFS日本協会・神奈川支部は、高校留学を通じた国際異文化理解教育を目的とする民間の財団法人(文部科学省下)である。日本では、先日、緒方貞子さん(Non "Returner")を招いて設立50周年を記念したばかりのようだったが、国際本部はNY にあり、1919年に活動が始まって以来、世界50カ国以上にオフィスを置いている。毎年、世界で11,000人、日本国内では400人以上の高校生(年間派遣生)を、欧米、中南米、ASEAN、北欧各国の高校へ派遣、同時に留学生を受入れている。日本国内に60以上の支部を持ち、ホスト・スクール、ホスト・ファミリーへのサポートなどをしながら、国際異文化理解教育の機会を、地域に提供している。AFS生は、言葉もわからない各国の高校と家庭に1年間放り込まれ、四苦八苦しながら言葉を覚え、異文化の壁を越えるAFS体験を通して、多様性と、異なる価値や尊厳の尊重、差異の尊重、寛容性を身につけてい く。(詳細はこちら。)
AFS (American Field Service:米野戦奉仕団)の歴史は、もともと第一次世界大戦に遡る。パリにいたアメリカ人が、傷病兵を救護輸送するAmerican Ambulance (Service)の活動を始めたことが発端。一次大戦終了後、戦後の反省のもと、異文化理解教育を目的に、仏大学生を米国に送る、AFSフェローシップ・プログラムを開始。第二次大戦が始まると、傷病兵輸送サービスの活動を再開。中東、北アフリカ、ヨーロッパ、インド、ビルマなどで救護輸送を行い、1945年には、AFS救護輸送車ドライバー約70名が、ナチ強制収容所からのユダヤ人開放の輸送に従事。第二次大戦後、国際奨学金制度を設立。11カ国から 52名の大学生、高校生が米に派遣され、日本からは1954年、第1期生8人が氷川丸で渡米。以来、派遣・受入国は50カ国以上に広がり、現在までに、延べ32万5千人、日本国内では約1万人以上の高校留学生を輩出してきた。(詳細は、英語)よく、世界各国におけるAFSボランティア組織の裾野の広がりを、赤十字と比べたりするが、もともとは発祥の経緯にもあるようだ。個人的には、最近、国際人道法(戦争法)を勉強しているので、すっかり忘れていたこうした経緯は興味深くもある。皆さんの記憶にあるかもしれないのは、10年以上前に米で起きた、日本人留学生射殺事件かもしれない。事件後、遺族が中心になって米銃社会への規制を働きかけ、米日AFS事務所やAFSボランティア・ネットワーク(ホスト・スクール、ホスト・ファミリー、リターニー、ボランティア)もサポートした。
そうして派遣されたAFSリターニー(Returner: 留学経験者)は、最近は、日本国内でも、外交畑をはじめとし、政界、財界で、随分と活躍しているようだ。名簿については、悪用を恐れ、一切公表していないので、その全容は知れない。私自身は、大学時代ボランティアとしてあれだけの時間と精力をAFSに費やしたというのに、リターニーの現在のことを、あまり意識したこともなかったので、先日の懇親会まで、大御所がごろごろいることなど、ほどんど知らなかったので驚いてしまった。懇親会でも、だいぶ話題になったのが、S外務副大臣、I元軍縮大使(少子化担当大臣)、A広島市長をはじめ、各国大使。 (3月初めの国際本部代表訪日記事を 参照のこと。)NY周辺でさえわかっているだけで、O国連大使、T公使、N放送局F米総局長、A新聞米総局長ほか、上記前出メンバー。私の周りでも、東ティモールでもお世話になったUNICEFのU東京代表をはじめ、国連職員の中にも何人かAFSリターニーやボランティアがいる。時代の違いもあるだろうが、改めてみると、高校時におけるAFS留学は多くの人材を国内外に輩出しており、その教育的効果は計り知れないものがあるようだ。AFSが他の数ある留学プログラムや国際交流プログラムと圧倒的に異なるのは、その体験を、多様性の尊重と差異への寛容の精神、平和の追求、という国際社会の原則的価値に汎用させる、徹底したオリエンテーション(出発前・留学中・帰国後)と丁寧なサポートシステムによる教育的要素だと思う。それらを全てボランティアで回し、特定の宗教も政党も企業のバックもなく、純粋に、色をつけないようにやっているのだから、運営事務局はかなり大変である。
ここ数ヶ月間、SIPA同級生らと交わした、ODA議論、移民議論、難民議論、国内における「外国人問題」、中国との関係悪化に伴うナショナリズムの高揚に対する議論などを繰り返すにつけ、国内 における国際理解教育(異文化理解教育・開発教育の両方)が如何に大切かを思い知らされる。そういう意味で、AFSの使命と 役割の果たす効果は大きい。学生ボランティアをしていた大学生の頃は、ぼんやりとしか理解していなかったが、紛争解決や平和構築、和解の現場を見てのち勉強している今、改めて、異なる価値感や尊厳の尊重、寛容の精神が、平和な社会を実現するという、言葉の重みを痛感する。東京では最近、国内「外国人問題」 について、IOM(国際移民機関)を招いたシンポジウムが、 開かれたようである。前にも議論したが、移民や難民を受け入れるだけでなく、外国人観光客や海外投資を呼び寄せるには、日本社会も異文化を尊重する社会へと変容する必要があると思う。また、外相がAsia Wall Street Jornal に最近掲載した"Japan Welcomes China's Democratic Future"と題する意見記事も、 大変興味深かった。外相のいうように、日中の高校生数百人が、近い将来、交換留学をしあい、ホーム・ステイをする、そんな未来が本当にやって来るのだろうか、と思ってしまうほど、現状は悲観的でさえある。が、こういうのは、国内における地道な機会の提供で、時代と共にいずれ変わっていくものでもあるとも思 う。その意味で、AFSの役割は、改めて大きい。
興味深かったのは、今回の懇親会で、10期~14期の皆さんが、AFS日本支部を支えた大学生ボランティアだった頃の話に、華が咲いたときである。当時は、学生闘争の時代だったそうで、リターニー・学生ボランティアは、体制派と反体制派に分かれ、出国前オリエンテーション中に、新橋のビルの元で揉みあいになったり、羽田空港でビラが撒かれたりしたそうだ。あの時代に、米国に高校生を送ることが、センシティブだったのは想像に難くない。当時大学生ボランティアだった、Iさん(少子化担当大臣)やF元キャスター(N放送局米総局長)も、反体制派リターニーに潰されかかった日本事務局を守り、財団に申請する手続きをとるため、虎ノ門で一緒に奔走していた、という話を聞いたときは、にわかに信じがたかった。他には、今でもミャンマーからの留学生には政府から監視員がつくこと、中国からの留学生が帰国直前に帰りたくないと日本国内で逃走してしまった話など、様々なことが話題に出た。 ASEAN交流などの目的で留学生の数を増やすのは簡単だが、欧米ではなくASEANからの留学生を1年間預かってくれるホスト・ファミリーを日本で探すのは、容易ではない仕事だとも、話していた。
私自身は、高校生のとき、AFS留学から帰国した同級生に、御殿場で行われる5日間のサマー・キャンプに 誘われたのがきっかけだった。両親の許可を得て、お小遣いをはたいて参加。欧米の学生に会うのを楽しみにしていくと、そこには多くの中南米やアジアの高校生たちがいて驚いた。グループ・ワークを通して、モンゴルとタイからの留学生と仲良くなり、言葉や人種、文化の違いの壁を超えるのが楽しくて、将来は国際 関係の勉強をしようという動機にもなった。大学生になってから、AFSがキャンプ・スタッフを募集するというので、学生ボランティアに参加。御殿場でのイ ンターナショナル・サマー・キャンプの企画を中心に、各国留学生の受入プログラムのオリエンテーションや、神奈川支部の交流プログラムを、手伝った。毎日 のように新橋・虎ノ門の事務所に通い、夜中まで議論しあい、仲間と費やした濃密な時間は、いい思い出だ。
当時の大学生ボランティアの仲間は、高校時代、AFSで留学したメンバーが中心だった。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、メキシコ、コスタリカ、ベネズエラ、アメリカ、オーストラ リア、マレーシア、タイ…、帰国後は、日本社会への再適応と大学受験に苦しみながらも、強烈で特殊な体験をもとに自分の道を切り開いていっていた、当時の仲間から受けた刺激は大きい。私自身も、大学で国際関係学を学ぶ傍ら、AFSのいう異文化理解教育の重要性に気付いていた。当時企画していた、たった5日間のサマー・キャンプでさえ、日本人高校生200人と受入留学生50人に、どういう国際異文化体験をしてもらうか、留学に行けない高校生のために国内でできることは何か、どのようなきっかけを掴んでもらうか、どんなメッセージを伝えるか、大学生ボランティア50人をどうトレーニングするか、ということを、毎晩のように当時の仲間と、虎ノ門の事務所で遅くまで議論した。あまりにも毎晩、虎ノ門から終電で帰り、長電話で話し合うので、家族からは勘当すれすれだった。
本業の学業そっちのけで、どっぷりと漬かったAFSボランティアでの数年に疲れきり、また国際開発を勉強していたのでフィールドへ行ってみたい、私もAFSのような異文化体験をしたい、などなどの理由が重なって、大学4年生秋からCIEEという団体を通して、ガーナ大学に留学することに決心した。開発コンサル(三祐コンサルタンツ) やレストランなどのバイトを重ねてお金を貯め、アフリカに1年行きたいと家族に伝えると、母は泣いて反対したが、父は折れ、最終的には認めてもらえた。しかしその後、東ティモールでの仕事も、大学院留学でさえも、強い反対に合った。私が途上国に関わる仕事を選ぶことをようやく理解し、認めてくれるようになり、親との確執がなくなってきたのは、実はほんのこの1~2年のことである。だからこそ、異文化理解を日本社会に求める意識が、私は強いのかもしれない。 香港に仕事で3年住んでいた我が親や兄弟ですら、説得にこれだけの時間がかかったのだ。日本女性が、国際社会に出るまでには、場合によっては様々な障壁がある。男性には、そういった精神的労力は、想像もつかないかもしれない。
ガーナに留学していたときも、AFS事務所があると聞き、帰る前に一度だけ訪ねにいったことがあった。小さな事務所を訪れると、温かく迎え入れられ、それなりに嬉しかった。日本もいつか、ガーナを初めとしたアフリカの高校生との交換留学を始めればいいのに、と心から願う。昨年、ドイツを旅行したときには、一日だけ利用したケルンのユース・ホステルで、AFS大学生ボランティア相手のオリエンテーションに遭遇した。私も東京で同じようなことやってたよ~と、ひとしきり盛り上がった。ドイツでは、旧東ドイツ地域との交流や、東欧との交流にも、力を入れるらしい。
暫くは、AFS日本協会が現在3人しか受け入れていない中国の留学生を9人まで拡大するそうなので、それが遠い将来、どう発展するのかを、見届けたいと思う。ASEANプログラム同様、AFSが中国プログラムも広げていけたらいい、と願う。
ホスト・ファミリーは、年中、探しているようですので、ご関心のある方は、こちら。今年から、高校生だけでなく、大学生やシニア、子供も参加できるプログラムを拡大したようです(こちら)。まさかこの期に及んで、またAFSとの縁があるとは、夢にも思っていませんでしたが…。

(写真は、昨年、ドイツ・ケルンのユースホステルで遭遇したAFS学生ボランティア。)
私が大学時代の4年間のほぼ全てを注ぎ込んだAFS日本協会・神奈川支部は、高校留学を通じた国際異文化理解教育を目的とする民間の財団法人(文部科学省下)である。日本では、先日、緒方貞子さん(Non "Returner")を招いて設立50周年を記念したばかりのようだったが、国際本部はNY にあり、1919年に活動が始まって以来、世界50カ国以上にオフィスを置いている。毎年、世界で11,000人、日本国内では400人以上の高校生(年間派遣生)を、欧米、中南米、ASEAN、北欧各国の高校へ派遣、同時に留学生を受入れている。日本国内に60以上の支部を持ち、ホスト・スクール、ホスト・ファミリーへのサポートなどをしながら、国際異文化理解教育の機会を、地域に提供している。AFS生は、言葉もわからない各国の高校と家庭に1年間放り込まれ、四苦八苦しながら言葉を覚え、異文化の壁を越えるAFS体験を通して、多様性と、異なる価値や尊厳の尊重、差異の尊重、寛容性を身につけてい く。(詳細はこちら。)
AFS (American Field Service:米野戦奉仕団)の歴史は、もともと第一次世界大戦に遡る。パリにいたアメリカ人が、傷病兵を救護輸送するAmerican Ambulance (Service)の活動を始めたことが発端。一次大戦終了後、戦後の反省のもと、異文化理解教育を目的に、仏大学生を米国に送る、AFSフェローシップ・プログラムを開始。第二次大戦が始まると、傷病兵輸送サービスの活動を再開。中東、北アフリカ、ヨーロッパ、インド、ビルマなどで救護輸送を行い、1945年には、AFS救護輸送車ドライバー約70名が、ナチ強制収容所からのユダヤ人開放の輸送に従事。第二次大戦後、国際奨学金制度を設立。11カ国から 52名の大学生、高校生が米に派遣され、日本からは1954年、第1期生8人が氷川丸で渡米。以来、派遣・受入国は50カ国以上に広がり、現在までに、延べ32万5千人、日本国内では約1万人以上の高校留学生を輩出してきた。(詳細は、英語)よく、世界各国におけるAFSボランティア組織の裾野の広がりを、赤十字と比べたりするが、もともとは発祥の経緯にもあるようだ。個人的には、最近、国際人道法(戦争法)を勉強しているので、すっかり忘れていたこうした経緯は興味深くもある。皆さんの記憶にあるかもしれないのは、10年以上前に米で起きた、日本人留学生射殺事件かもしれない。事件後、遺族が中心になって米銃社会への規制を働きかけ、米日AFS事務所やAFSボランティア・ネットワーク(ホスト・スクール、ホスト・ファミリー、リターニー、ボランティア)もサポートした。
そうして派遣されたAFSリターニー(Returner: 留学経験者)は、最近は、日本国内でも、外交畑をはじめとし、政界、財界で、随分と活躍しているようだ。名簿については、悪用を恐れ、一切公表していないので、その全容は知れない。私自身は、大学時代ボランティアとしてあれだけの時間と精力をAFSに費やしたというのに、リターニーの現在のことを、あまり意識したこともなかったので、先日の懇親会まで、大御所がごろごろいることなど、ほどんど知らなかったので驚いてしまった。懇親会でも、だいぶ話題になったのが、S外務副大臣、I元軍縮大使(少子化担当大臣)、A広島市長をはじめ、各国大使。 (3月初めの国際本部代表訪日記事を 参照のこと。)NY周辺でさえわかっているだけで、O国連大使、T公使、N放送局F米総局長、A新聞米総局長ほか、上記前出メンバー。私の周りでも、東ティモールでもお世話になったUNICEFのU東京代表をはじめ、国連職員の中にも何人かAFSリターニーやボランティアがいる。時代の違いもあるだろうが、改めてみると、高校時におけるAFS留学は多くの人材を国内外に輩出しており、その教育的効果は計り知れないものがあるようだ。AFSが他の数ある留学プログラムや国際交流プログラムと圧倒的に異なるのは、その体験を、多様性の尊重と差異への寛容の精神、平和の追求、という国際社会の原則的価値に汎用させる、徹底したオリエンテーション(出発前・留学中・帰国後)と丁寧なサポートシステムによる教育的要素だと思う。それらを全てボランティアで回し、特定の宗教も政党も企業のバックもなく、純粋に、色をつけないようにやっているのだから、運営事務局はかなり大変である。
ここ数ヶ月間、SIPA同級生らと交わした、ODA議論、移民議論、難民議論、国内における「外国人問題」、中国との関係悪化に伴うナショナリズムの高揚に対する議論などを繰り返すにつけ、国内 における国際理解教育(異文化理解教育・開発教育の両方)が如何に大切かを思い知らされる。そういう意味で、AFSの使命と 役割の果たす効果は大きい。学生ボランティアをしていた大学生の頃は、ぼんやりとしか理解していなかったが、紛争解決や平和構築、和解の現場を見てのち勉強している今、改めて、異なる価値感や尊厳の尊重、寛容の精神が、平和な社会を実現するという、言葉の重みを痛感する。東京では最近、国内「外国人問題」 について、IOM(国際移民機関)を招いたシンポジウムが、 開かれたようである。前にも議論したが、移民や難民を受け入れるだけでなく、外国人観光客や海外投資を呼び寄せるには、日本社会も異文化を尊重する社会へと変容する必要があると思う。また、外相がAsia Wall Street Jornal に最近掲載した"Japan Welcomes China's Democratic Future"と題する意見記事も、 大変興味深かった。外相のいうように、日中の高校生数百人が、近い将来、交換留学をしあい、ホーム・ステイをする、そんな未来が本当にやって来るのだろうか、と思ってしまうほど、現状は悲観的でさえある。が、こういうのは、国内における地道な機会の提供で、時代と共にいずれ変わっていくものでもあるとも思 う。その意味で、AFSの役割は、改めて大きい。
興味深かったのは、今回の懇親会で、10期~14期の皆さんが、AFS日本支部を支えた大学生ボランティアだった頃の話に、華が咲いたときである。当時は、学生闘争の時代だったそうで、リターニー・学生ボランティアは、体制派と反体制派に分かれ、出国前オリエンテーション中に、新橋のビルの元で揉みあいになったり、羽田空港でビラが撒かれたりしたそうだ。あの時代に、米国に高校生を送ることが、センシティブだったのは想像に難くない。当時大学生ボランティアだった、Iさん(少子化担当大臣)やF元キャスター(N放送局米総局長)も、反体制派リターニーに潰されかかった日本事務局を守り、財団に申請する手続きをとるため、虎ノ門で一緒に奔走していた、という話を聞いたときは、にわかに信じがたかった。他には、今でもミャンマーからの留学生には政府から監視員がつくこと、中国からの留学生が帰国直前に帰りたくないと日本国内で逃走してしまった話など、様々なことが話題に出た。 ASEAN交流などの目的で留学生の数を増やすのは簡単だが、欧米ではなくASEANからの留学生を1年間預かってくれるホスト・ファミリーを日本で探すのは、容易ではない仕事だとも、話していた。
私自身は、高校生のとき、AFS留学から帰国した同級生に、御殿場で行われる5日間のサマー・キャンプに 誘われたのがきっかけだった。両親の許可を得て、お小遣いをはたいて参加。欧米の学生に会うのを楽しみにしていくと、そこには多くの中南米やアジアの高校生たちがいて驚いた。グループ・ワークを通して、モンゴルとタイからの留学生と仲良くなり、言葉や人種、文化の違いの壁を超えるのが楽しくて、将来は国際 関係の勉強をしようという動機にもなった。大学生になってから、AFSがキャンプ・スタッフを募集するというので、学生ボランティアに参加。御殿場でのイ ンターナショナル・サマー・キャンプの企画を中心に、各国留学生の受入プログラムのオリエンテーションや、神奈川支部の交流プログラムを、手伝った。毎日 のように新橋・虎ノ門の事務所に通い、夜中まで議論しあい、仲間と費やした濃密な時間は、いい思い出だ。
当時の大学生ボランティアの仲間は、高校時代、AFSで留学したメンバーが中心だった。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、メキシコ、コスタリカ、ベネズエラ、アメリカ、オーストラ リア、マレーシア、タイ…、帰国後は、日本社会への再適応と大学受験に苦しみながらも、強烈で特殊な体験をもとに自分の道を切り開いていっていた、当時の仲間から受けた刺激は大きい。私自身も、大学で国際関係学を学ぶ傍ら、AFSのいう異文化理解教育の重要性に気付いていた。当時企画していた、たった5日間のサマー・キャンプでさえ、日本人高校生200人と受入留学生50人に、どういう国際異文化体験をしてもらうか、留学に行けない高校生のために国内でできることは何か、どのようなきっかけを掴んでもらうか、どんなメッセージを伝えるか、大学生ボランティア50人をどうトレーニングするか、ということを、毎晩のように当時の仲間と、虎ノ門の事務所で遅くまで議論した。あまりにも毎晩、虎ノ門から終電で帰り、長電話で話し合うので、家族からは勘当すれすれだった。
本業の学業そっちのけで、どっぷりと漬かったAFSボランティアでの数年に疲れきり、また国際開発を勉強していたのでフィールドへ行ってみたい、私もAFSのような異文化体験をしたい、などなどの理由が重なって、大学4年生秋からCIEEという団体を通して、ガーナ大学に留学することに決心した。開発コンサル(三祐コンサルタンツ) やレストランなどのバイトを重ねてお金を貯め、アフリカに1年行きたいと家族に伝えると、母は泣いて反対したが、父は折れ、最終的には認めてもらえた。しかしその後、東ティモールでの仕事も、大学院留学でさえも、強い反対に合った。私が途上国に関わる仕事を選ぶことをようやく理解し、認めてくれるようになり、親との確執がなくなってきたのは、実はほんのこの1~2年のことである。だからこそ、異文化理解を日本社会に求める意識が、私は強いのかもしれない。 香港に仕事で3年住んでいた我が親や兄弟ですら、説得にこれだけの時間がかかったのだ。日本女性が、国際社会に出るまでには、場合によっては様々な障壁がある。男性には、そういった精神的労力は、想像もつかないかもしれない。
ガーナに留学していたときも、AFS事務所があると聞き、帰る前に一度だけ訪ねにいったことがあった。小さな事務所を訪れると、温かく迎え入れられ、それなりに嬉しかった。日本もいつか、ガーナを初めとしたアフリカの高校生との交換留学を始めればいいのに、と心から願う。昨年、ドイツを旅行したときには、一日だけ利用したケルンのユース・ホステルで、AFS大学生ボランティア相手のオリエンテーションに遭遇した。私も東京で同じようなことやってたよ~と、ひとしきり盛り上がった。ドイツでは、旧東ドイツ地域との交流や、東欧との交流にも、力を入れるらしい。
暫くは、AFS日本協会が現在3人しか受け入れていない中国の留学生を9人まで拡大するそうなので、それが遠い将来、どう発展するのかを、見届けたいと思う。ASEANプログラム同様、AFSが中国プログラムも広げていけたらいい、と願う。
ホスト・ファミリーは、年中、探しているようですので、ご関心のある方は、こちら。今年から、高校生だけでなく、大学生やシニア、子供も参加できるプログラムを拡大したようです(こちら)。まさかこの期に及んで、またAFSとの縁があるとは、夢にも思っていませんでしたが…。

(写真は、昨年、ドイツ・ケルンのユースホステルで遭遇したAFS学生ボランティア。)
Tuesday, March 7, 2006
62. Passing the Baton on Drinks
半年ほど前に、NからMixiで「酒バトン」が回ってきたのに、すっかりお返事してなくてごめんなさい。Kから「飲み会バトン」が回ってきたので、ふたついっぺんに。
Q1 酔うと基本的にどうなりますか?
あんまり変わらない。と、言いたいところですが…。先日は、全く違う普通の人を指して、松井がいる~、などと申しておりました。お恥ずかしい。
Q2 酔っ払ったときの最悪の失敗談は何ですか?
最悪とは言わないけれど、以前、耐え切れず、既に懺悔しましたとおり。(こちら。続きの話。)友人Lには、心配かけた。でも、いろいろあったの…。(←いいわけ。)ええい、二十代の良き思い出として、笑い飛ばそう。
あ とは、十代のとき、大学時代、方々で語られた、品川ホームレス・ネタでしょうか。(懐かしいね~、Lib。)大学二年生のとき、AFSの新歓コンパで飲ま された帰り、山手線で寝てしまい、ぐるっと回った挙句、終電・終点の品川駅で駅員さんに起こされた。帰る術も無く、困り果てた末、自宅には友達のところに 泊まると電話し、実際は改札の外で始発を待つことに。外は春雨が降り始め、酔っ払いのサラリーマンに絡まれたり、薄着で寒がってたり、自己嫌悪に苛まれな がら心細く佇んでいたら、近くに座っていたホームレスのおじいさんが、段ボールと新聞を貸してくれた。これが暖かい! しつこく絡んできたサラリーマンは 諦めて去って行き、ホームレスのおじい様には、これからは気をつけない、とたしなめられる。段ボールの上で数時間、座って過ごした後、始発が来てから、お じいさんに御礼を言って帰ったのだが、暫くなかなか、その出来事が忘れられなかった。その後、当時世間で盛り上がっていた、都知事とホームレス問題につい て、豪人留学生(タニア…)のリサーチ通訳を手伝うことに。私もついでにゼミ論として、リサーチして発表したりしたんだっけ。懐かしい。学生らしくて、い い話だ。
Q3 そのときはどのくらい飲みましたか?
相当。
Q4 最悪の二日酔いはどんな感じでしたか?
頭痛に苛まれ、何をしようとしても、何も手につかない。仕方なく、水をたくさん飲む。そして三日酔いへ…。そして迎い酒へ…。
Q5 酔っ払って迷惑をかけた人にこの場で謝りましょう。
ダイアナ、ごめんなさい。家まで帰らせてくれて、本当に有難う。さもなくば、あの後、あの6階で昏睡していたかもしれませぬ。…恐ろしい。そして、品川のホームレスのおじいさん、有難う! 人を見かけで判断してはいけないと、そのとき学びました。
Q6 今冷蔵庫に入っているお酒の量は?
我 が家のルームメイト二人(一人は、元バーテンダー)と私の三人で、一つの冷蔵庫をシェアしているので、常時ビール7~8本程が収容限度。冷凍庫の方には、 前のルームメイトが置いていったカルーアとジンとウォッカが。今までは、常時、ワインかお酒があったけれど、最近は控えておりますので、今はない。
Q7 好きな銘柄は?
日本酒は、浦霞、酔鯨、八海山など。焼酎は、ほとんど飲まないけれど、兼八(ほんとに麦チョコ味でした)を、最近教えてもらった。銘柄ではないが、ワインの葡萄は、シャルドネ(白)か、メルロー(赤)を、選ぶことが多い。よく知らないから。
Q8 最近、最後に飲んだお店は?
ちょうど先週末、ミッドタウンの「酒蔵」で。K氏とA子と。
Q9 よく飲む思い入れのあるお酒は?
よくは飲まないけど、思い入れのあるお酒をふたつ。
ジン(Bombay Sapphire)
昔、 大学一年生の頃、1ヵ月半程、NZでファーム・ステイをした際に覚えた。ホスト・ファミリーのお父さんが、よくジン・トニックを作って飲んでいて、時々私 にも作ってくれた。夕方、小さな牧場での仕事を終え、庭からライムを採ってきて、外のテーブルで飲むのが、美味しくて、忘れられず。社会人になってから、 あの綺麗な青いボトルが、Bombay Sapphireだったのを知り、感動。以来、今でも、何とかの一つ覚えで、カクテルはジン・トニックしかよく知らない。あとは、モヒートとか。さっぱり 辛口系が口に合うよう。
白ワイン(Vinho Verde)
ポ ルトガル・ワイン。魚料理に合う、これもさっぱり辛口系でフルーティで美味しい。東ティモールでは、海岸の浜辺沿いに、点々と屋外の魚料理屋さんがある。 東ティというと、統治時代のインドネシアのイメージが大きい方も多いかもしれないが、独立後は、ポルトガル系やオーストラリア系のレストランやワインが多 く、私もよくいろいろ飲んだ。当時は、UNDPオフィスの代表と副代表が日本人と中国人で、East Asianの典型らしくハード・ワーカーの仕事の鬼が揃い、スタッフは皆、夜遅くまでオフィスに残って仕事をしていた時期だった。家に帰っても停電でシャ ワーも浴びれず暑苦しいので、発電機とクーラーとインターネット接続のあるオフィスに残って仕事を続ける。独立後で不安定な状況が長く続いていたことも手 伝って、オフィス全体でストレスが溜まっており、風邪やデング熱などで体調を崩す人が続いた。そこで、なるべく同僚同士で声を掛け合い、夕方になると、パ ソコンに張り付いている人も引っ張り出して、ジョギングやジムに出る。
美しい夕暮れの海岸沿いを走った後、シャワーも浴びずにオフィスに戻ることもあれ ば、少し余裕があるとレストランへ寄って、夕食後にまたオフィスへ戻り、深夜まで…、というパターンができた。夕食をさくっと済ませるときは、ジョギング の帰り道、浜辺のレストランで、捕れたての魚やイカを選んで焼いてもらい、サラダと食べる。しかし、ここでワインを飲んでしまうと、その後仕事にならな い。誘惑に負けて、軽めの白ワイン・Vihno Verdeを頼んでしまった日には、やはりオフィスに戻ってから、能率が上がらない。すごすごと家へ帰ると、やはり停電中で、シャワーも浴びれずに、ふて ねする…。翌日の朝には、電気は戻っているのだが、終わらなかった仕事を前に、後悔に苛まれる。誘惑のVinho Verde。フィールドでの生活とは、こんなでした…。お楽しみアレ。

夕暮れのディリの海岸 ジョギング・コース photo by Hakan Ugurlu
Q1 酔うと基本的にどうなりますか?
あんまり変わらない。と、言いたいところですが…。先日は、全く違う普通の人を指して、松井がいる~、などと申しておりました。お恥ずかしい。
Q2 酔っ払ったときの最悪の失敗談は何ですか?
最悪とは言わないけれど、以前、耐え切れず、既に懺悔しましたとおり。(こちら。続きの話。)友人Lには、心配かけた。でも、いろいろあったの…。(←いいわけ。)ええい、二十代の良き思い出として、笑い飛ばそう。
あ とは、十代のとき、大学時代、方々で語られた、品川ホームレス・ネタでしょうか。(懐かしいね~、Lib。)大学二年生のとき、AFSの新歓コンパで飲ま された帰り、山手線で寝てしまい、ぐるっと回った挙句、終電・終点の品川駅で駅員さんに起こされた。帰る術も無く、困り果てた末、自宅には友達のところに 泊まると電話し、実際は改札の外で始発を待つことに。外は春雨が降り始め、酔っ払いのサラリーマンに絡まれたり、薄着で寒がってたり、自己嫌悪に苛まれな がら心細く佇んでいたら、近くに座っていたホームレスのおじいさんが、段ボールと新聞を貸してくれた。これが暖かい! しつこく絡んできたサラリーマンは 諦めて去って行き、ホームレスのおじい様には、これからは気をつけない、とたしなめられる。段ボールの上で数時間、座って過ごした後、始発が来てから、お じいさんに御礼を言って帰ったのだが、暫くなかなか、その出来事が忘れられなかった。その後、当時世間で盛り上がっていた、都知事とホームレス問題につい て、豪人留学生(タニア…)のリサーチ通訳を手伝うことに。私もついでにゼミ論として、リサーチして発表したりしたんだっけ。懐かしい。学生らしくて、い い話だ。
Q3 そのときはどのくらい飲みましたか?
相当。
Q4 最悪の二日酔いはどんな感じでしたか?
頭痛に苛まれ、何をしようとしても、何も手につかない。仕方なく、水をたくさん飲む。そして三日酔いへ…。そして迎い酒へ…。
Q5 酔っ払って迷惑をかけた人にこの場で謝りましょう。
ダイアナ、ごめんなさい。家まで帰らせてくれて、本当に有難う。さもなくば、あの後、あの6階で昏睡していたかもしれませぬ。…恐ろしい。そして、品川のホームレスのおじいさん、有難う! 人を見かけで判断してはいけないと、そのとき学びました。
Q6 今冷蔵庫に入っているお酒の量は?
我 が家のルームメイト二人(一人は、元バーテンダー)と私の三人で、一つの冷蔵庫をシェアしているので、常時ビール7~8本程が収容限度。冷凍庫の方には、 前のルームメイトが置いていったカルーアとジンとウォッカが。今までは、常時、ワインかお酒があったけれど、最近は控えておりますので、今はない。
Q7 好きな銘柄は?
日本酒は、浦霞、酔鯨、八海山など。焼酎は、ほとんど飲まないけれど、兼八(ほんとに麦チョコ味でした)を、最近教えてもらった。銘柄ではないが、ワインの葡萄は、シャルドネ(白)か、メルロー(赤)を、選ぶことが多い。よく知らないから。
Q8 最近、最後に飲んだお店は?
ちょうど先週末、ミッドタウンの「酒蔵」で。K氏とA子と。
Q9 よく飲む思い入れのあるお酒は?
よくは飲まないけど、思い入れのあるお酒をふたつ。
ジン(Bombay Sapphire)
昔、 大学一年生の頃、1ヵ月半程、NZでファーム・ステイをした際に覚えた。ホスト・ファミリーのお父さんが、よくジン・トニックを作って飲んでいて、時々私 にも作ってくれた。夕方、小さな牧場での仕事を終え、庭からライムを採ってきて、外のテーブルで飲むのが、美味しくて、忘れられず。社会人になってから、 あの綺麗な青いボトルが、Bombay Sapphireだったのを知り、感動。以来、今でも、何とかの一つ覚えで、カクテルはジン・トニックしかよく知らない。あとは、モヒートとか。さっぱり 辛口系が口に合うよう。
白ワイン(Vinho Verde)
ポ ルトガル・ワイン。魚料理に合う、これもさっぱり辛口系でフルーティで美味しい。東ティモールでは、海岸の浜辺沿いに、点々と屋外の魚料理屋さんがある。 東ティというと、統治時代のインドネシアのイメージが大きい方も多いかもしれないが、独立後は、ポルトガル系やオーストラリア系のレストランやワインが多 く、私もよくいろいろ飲んだ。当時は、UNDPオフィスの代表と副代表が日本人と中国人で、East Asianの典型らしくハード・ワーカーの仕事の鬼が揃い、スタッフは皆、夜遅くまでオフィスに残って仕事をしていた時期だった。家に帰っても停電でシャ ワーも浴びれず暑苦しいので、発電機とクーラーとインターネット接続のあるオフィスに残って仕事を続ける。独立後で不安定な状況が長く続いていたことも手 伝って、オフィス全体でストレスが溜まっており、風邪やデング熱などで体調を崩す人が続いた。そこで、なるべく同僚同士で声を掛け合い、夕方になると、パ ソコンに張り付いている人も引っ張り出して、ジョギングやジムに出る。
美しい夕暮れの海岸沿いを走った後、シャワーも浴びずにオフィスに戻ることもあれ ば、少し余裕があるとレストランへ寄って、夕食後にまたオフィスへ戻り、深夜まで…、というパターンができた。夕食をさくっと済ませるときは、ジョギング の帰り道、浜辺のレストランで、捕れたての魚やイカを選んで焼いてもらい、サラダと食べる。しかし、ここでワインを飲んでしまうと、その後仕事にならな い。誘惑に負けて、軽めの白ワイン・Vihno Verdeを頼んでしまった日には、やはりオフィスに戻ってから、能率が上がらない。すごすごと家へ帰ると、やはり停電中で、シャワーも浴びれずに、ふて ねする…。翌日の朝には、電気は戻っているのだが、終わらなかった仕事を前に、後悔に苛まれる。誘惑のVinho Verde。フィールドでの生活とは、こんなでした…。お楽しみアレ。

夕暮れのディリの海岸 ジョギング・コース photo by Hakan Ugurlu
Sunday, March 5, 2006
61. Conflict and Development
先日、国連フォーラムで、たまたま今、私が勉強していることについての勉強会があり、メーリング・リスト宛てに報告を書く機会がありました。ブログ用に少し訂正したものを、下記に引用しておきます。こんなことを勉強しています、のご報告がてら。
尚、「国連フォーラム」というのは、国連を中心とした情報・意見交換を目的とするフォーラムで、私も幹事を務めています。メーリング・リストを中心に、NYでの勉強会や、 フィールドからのレポートなども行っています。(今後は東京での勉強会も企画中のよう。)幹事会では、国連邦人職員会や外務省国連代表部の方々のリーダー シップのもと、我々コロンビア大(SIPA)やニューヨーク大(NYU)の学生が、運営のお手伝いをしています。ニューヨーク・ワシントン・ジュネーブ・ ロンドン・バングラディッシュ・東京を跨いで、日々やりとりし、立ち上げから約1年ちょっとの現在、メーリング・リスト参加者は約700人ほどになったよ うです。主に、国連邦人職員、外務省・JICA関係者、学生・NGO・メディア関係者などが多いようですが、MLですのでご関心があればどなたでも登録で きます。もし宜しければ、お気軽にご参加くださいな。(登録はこちらから)また、ワシントンDC開発フォーラムの姉妹版でもあるので、ご関心のある方は、そちらもご参考にされてみてください。
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先日、世界銀行NY事務所にて、社会開発局 紛争予防・復興支援ユニットのK氏による、「紛争と開発」と題する勉強会が開催されました。大変興味深い勉強会でしたので、皆さまにご報告いたします。
今回の勉強会では初めに、講師から用意された45分の世銀作ドキュメンタリー(英語)「Nation Zero」を見た後に、30分ほどお話いただき、質疑応答に移りました。このドキュメンタリーは、昨年5月に世銀から出された報告書「戦乱下の罠(Breaking the Conflict Trap: Civil War and Development Policy)」の日本語版作成に合わせ、日本信託基金で作られたもので、つい先々週、BBCでも放送されたそうです。
ド キュメンタリーは、紛争と開発の相関関係について、アフガニスタン、コロンビア、ボスニア、ルワンダの事例を取り上げてました。各地の紛争の映像を織り交 ぜながら、貧困との相関関係について、Paul Collier氏(Oxford大学教授・世銀上級アドバイザー)、Jeffery Sachs氏(Columbia大学教授・MDGs国連特別アドバイザー)、明石康氏などのインタビューをはさんで分析し、その後、それぞれのケースごと に、世銀の取り組みが紹介されていました。
衝撃的で迫力のある映像が効果的に使われていたのが印象的で、上映後は、出席者の多くから溜息 が漏れ、改めて私たちがフィールドから離れて取り組んでいる問題の深刻さを、見せつけられました。こうした世界の紛争と貧困の様子は、日本をはじめとし た、米、英などドナー諸国に住む一般納税者には、なかなか実感・認識しづらいことです。今回の上映では、貧困や紛争などの問題について、映像が視聴者に訴 える強さを、改めて認識させられました。
一方で、援助機関とドナー政府は、ODA額の引き上げを実施/要求するだけでなく、一般納税者に 対しアカウンタビリティーを積極的に果たしていくべきだとも、思いました。プログラムの実施を報告するだけでなく、取り組みの意図や問題意識を、映像を 使って問うことの重要性も感じました。多くの報告書やパンフレットが援助機関から出版されますが、それらに関心をもち理解する納税者は一体どれほどあるの か、以前、実際に自分で作っていて疑問に思ったことがあります。有名人や芸能人を途上国につれた広報目的のテレビ番組はいくつかありますが、今回のドキュ メンタリーのように、途上国の紛争や貧困と先進国の生活との直接の関係を視聴者に問い、問題意識を養うことも大切だと思います。教育チャンネルの中で開発 教育の番組を流すとか、ドキュメンタリー番組を作るなど、異なる対象者ごとに少しでも多くの途上国の現状と先進国の生活の乖離と関係を問う映像が、日本で も放送されるべきだと、常々個人的に思います。この点について、国連フォーラムやメディアの皆さまの率直なご意見も、お聞かせいただければ、光栄です。
さ て、勉強会では上映後に講師から「紛争と開発」の関係と世銀の取り組みについて、解説がありました。世界の最貧国20カ国のうち、80%以上が何らかの紛 争と暴力を経験しているだけでなく、紛争を解決した国の50%が、5年以内にまた紛争状態に戻ってしまう。冷戦後の90年代に各地で紛争が相次ぎ、現在で は、世銀貸付対象国184カ国のうち約1/4が何らかの形で紛争に関係している。こういった背景から、世銀も紛争時におけるDevelopmentの役割 を認識しなおし、ユニットを設立して、研究やアセスメント、国連との協調などを、この10年で進めてきた。東ティモール、アフガニスタン、イラク、リベリ ア、ハイチ、スーダン…と、少しずつlessons learned を生かしながら現場でのプログラム実施と援助協調の経験も積み上げてきている、…などなど。先日、ようやく平和構築委員会も設立され、今後、世銀がどのよ うに国連や他の機関と協調して、この分野で役割を果たしていくか、大変注目されているところであると思います。
質疑応答になると、出席者 からは主に、紛争と貧困の関係について質問がありました。貧困を解決するだけでは紛争や暴力は解決されないのでは; 絶対的貧困ではなく、相対的貧困のあ る社会、マージナライズされた格差、不平等が存在する社会で、選挙や何らかの事件をtriggerとして、紛争が始まることが多い; P5 (Permanent 5: 安保理常任理事国)の国々から貧困国へ流れる武器輸出やビデオの中でも出てきた麻薬やダイヤモンドなどの紛争資金源の問題をまず解決すべきである、などの 意見が相次ぎました。
私も、個人的には、たまたまConflict Assessmentという授業を大学院でとっている傍ら、今回の勉強会に参加したので、大変興味深い議論を伺う機会となりました。授業の中では、世銀の アセスメントだけでなく、DFID、USAID、Clingendael 、UNDPなど、様々な援助機関のアセスメントを比較してきましたが、世銀を含む幾つかの援助機関では、貧困を計る経済指標よりも、社会格差や不平等、 Justice Sector(司法)やSecurity Sector(軍・警察)の発達度、紛争アクターの国内外のリソースを測る指標などが、アセスメントの中に、多く取り上げられています。(JICAにもア セスメントがあると伺いましたが、どのようなアプローチをとっていらっしゃるのでしょうか。)紛争と開発については、貧困だけでなく、ガバナンスと紛争の 関係性も注視すべきだと思います。
また、質疑応答にもありましたが、昨年、世銀とUNDP、UNDGのために開発されたPost- Conflit Needs Assessment(PCNA)が、実際にどのように使われているのか、Conflict AssessmentとNeeds Assessmentとの関係、DPKOのオペレーションとはどのように刷り合わせているのか、今後スーダンやハイチ、コンゴで、どのように世銀と国連が 協調していくのか、具体的にconfrontしている点は何か…などなど、今後も議論を聞かせていただければ幸いです。
最後に、一番印象 に残ったのは、ビデオで出てきたボスニア人のインタビューに対して講師が触れられてた点でした。「あのボスニア人の男性は、『最初に一人、身内が殺された ときはショックだったが、その後次々に殺されて次第に慣れてなんとも思わなくなった』と言っているが、本当は今でも心の傷は深いはず。」 「Psycosocial outputとしての紛争や暴力という点は、これまでneglectされてきた分、triggerにばかり注目がいき、何が根本原因となっているかわかっ ていなかったことも多かった」と、おっしゃっていました。
深い悲しみ(grievances)と欲(greeds)が、憎悪や暴力、紛争 の形になるという研究もあります。ルワンダのガチャチャ裁判や、東ティモール・南アでの真実・受容・和解委員会では、真実を受け止め、許すという一連の心 の過程を通して、国民和解を推進していくプログラムが広く実施されてきました。DDRや4Rsなどの再統合のプログラムと同時に、忘れ去られがちな Truth & ReconciliationやTransitional justice、Psycosocial の問題に焦点を充てたプログラムも、両輪として進行していくことが大切だと思います。
今年の世銀の年次レポートのテーマは、 「Youth」だそうです。児童兵や若い兵士たちの多くは、失業や学校に行けないことで、食べていくために武器を持つことも多いようです。今後も、紛争と 開発、平和構築分野における、世銀の活躍・国連との援助協調に、注目していきたいと思います。
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尚、「国連フォーラム」というのは、国連を中心とした情報・意見交換を目的とするフォーラムで、私も幹事を務めています。メーリング・リストを中心に、NYでの勉強会や、 フィールドからのレポートなども行っています。(今後は東京での勉強会も企画中のよう。)幹事会では、国連邦人職員会や外務省国連代表部の方々のリーダー シップのもと、我々コロンビア大(SIPA)やニューヨーク大(NYU)の学生が、運営のお手伝いをしています。ニューヨーク・ワシントン・ジュネーブ・ ロンドン・バングラディッシュ・東京を跨いで、日々やりとりし、立ち上げから約1年ちょっとの現在、メーリング・リスト参加者は約700人ほどになったよ うです。主に、国連邦人職員、外務省・JICA関係者、学生・NGO・メディア関係者などが多いようですが、MLですのでご関心があればどなたでも登録で きます。もし宜しければ、お気軽にご参加くださいな。(登録はこちらから)また、ワシントンDC開発フォーラムの姉妹版でもあるので、ご関心のある方は、そちらもご参考にされてみてください。
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先日、世界銀行NY事務所にて、社会開発局 紛争予防・復興支援ユニットのK氏による、「紛争と開発」と題する勉強会が開催されました。大変興味深い勉強会でしたので、皆さまにご報告いたします。
今回の勉強会では初めに、講師から用意された45分の世銀作ドキュメンタリー(英語)「Nation Zero」を見た後に、30分ほどお話いただき、質疑応答に移りました。このドキュメンタリーは、昨年5月に世銀から出された報告書「戦乱下の罠(Breaking the Conflict Trap: Civil War and Development Policy)」の日本語版作成に合わせ、日本信託基金で作られたもので、つい先々週、BBCでも放送されたそうです。
ド キュメンタリーは、紛争と開発の相関関係について、アフガニスタン、コロンビア、ボスニア、ルワンダの事例を取り上げてました。各地の紛争の映像を織り交 ぜながら、貧困との相関関係について、Paul Collier氏(Oxford大学教授・世銀上級アドバイザー)、Jeffery Sachs氏(Columbia大学教授・MDGs国連特別アドバイザー)、明石康氏などのインタビューをはさんで分析し、その後、それぞれのケースごと に、世銀の取り組みが紹介されていました。
衝撃的で迫力のある映像が効果的に使われていたのが印象的で、上映後は、出席者の多くから溜息 が漏れ、改めて私たちがフィールドから離れて取り組んでいる問題の深刻さを、見せつけられました。こうした世界の紛争と貧困の様子は、日本をはじめとし た、米、英などドナー諸国に住む一般納税者には、なかなか実感・認識しづらいことです。今回の上映では、貧困や紛争などの問題について、映像が視聴者に訴 える強さを、改めて認識させられました。
一方で、援助機関とドナー政府は、ODA額の引き上げを実施/要求するだけでなく、一般納税者に 対しアカウンタビリティーを積極的に果たしていくべきだとも、思いました。プログラムの実施を報告するだけでなく、取り組みの意図や問題意識を、映像を 使って問うことの重要性も感じました。多くの報告書やパンフレットが援助機関から出版されますが、それらに関心をもち理解する納税者は一体どれほどあるの か、以前、実際に自分で作っていて疑問に思ったことがあります。有名人や芸能人を途上国につれた広報目的のテレビ番組はいくつかありますが、今回のドキュ メンタリーのように、途上国の紛争や貧困と先進国の生活との直接の関係を視聴者に問い、問題意識を養うことも大切だと思います。教育チャンネルの中で開発 教育の番組を流すとか、ドキュメンタリー番組を作るなど、異なる対象者ごとに少しでも多くの途上国の現状と先進国の生活の乖離と関係を問う映像が、日本で も放送されるべきだと、常々個人的に思います。この点について、国連フォーラムやメディアの皆さまの率直なご意見も、お聞かせいただければ、光栄です。
さ て、勉強会では上映後に講師から「紛争と開発」の関係と世銀の取り組みについて、解説がありました。世界の最貧国20カ国のうち、80%以上が何らかの紛 争と暴力を経験しているだけでなく、紛争を解決した国の50%が、5年以内にまた紛争状態に戻ってしまう。冷戦後の90年代に各地で紛争が相次ぎ、現在で は、世銀貸付対象国184カ国のうち約1/4が何らかの形で紛争に関係している。こういった背景から、世銀も紛争時におけるDevelopmentの役割 を認識しなおし、ユニットを設立して、研究やアセスメント、国連との協調などを、この10年で進めてきた。東ティモール、アフガニスタン、イラク、リベリ ア、ハイチ、スーダン…と、少しずつlessons learned を生かしながら現場でのプログラム実施と援助協調の経験も積み上げてきている、…などなど。先日、ようやく平和構築委員会も設立され、今後、世銀がどのよ うに国連や他の機関と協調して、この分野で役割を果たしていくか、大変注目されているところであると思います。
質疑応答になると、出席者 からは主に、紛争と貧困の関係について質問がありました。貧困を解決するだけでは紛争や暴力は解決されないのでは; 絶対的貧困ではなく、相対的貧困のあ る社会、マージナライズされた格差、不平等が存在する社会で、選挙や何らかの事件をtriggerとして、紛争が始まることが多い; P5 (Permanent 5: 安保理常任理事国)の国々から貧困国へ流れる武器輸出やビデオの中でも出てきた麻薬やダイヤモンドなどの紛争資金源の問題をまず解決すべきである、などの 意見が相次ぎました。
私も、個人的には、たまたまConflict Assessmentという授業を大学院でとっている傍ら、今回の勉強会に参加したので、大変興味深い議論を伺う機会となりました。授業の中では、世銀の アセスメントだけでなく、DFID、USAID、Clingendael 、UNDPなど、様々な援助機関のアセスメントを比較してきましたが、世銀を含む幾つかの援助機関では、貧困を計る経済指標よりも、社会格差や不平等、 Justice Sector(司法)やSecurity Sector(軍・警察)の発達度、紛争アクターの国内外のリソースを測る指標などが、アセスメントの中に、多く取り上げられています。(JICAにもア セスメントがあると伺いましたが、どのようなアプローチをとっていらっしゃるのでしょうか。)紛争と開発については、貧困だけでなく、ガバナンスと紛争の 関係性も注視すべきだと思います。
また、質疑応答にもありましたが、昨年、世銀とUNDP、UNDGのために開発されたPost- Conflit Needs Assessment(PCNA)が、実際にどのように使われているのか、Conflict AssessmentとNeeds Assessmentとの関係、DPKOのオペレーションとはどのように刷り合わせているのか、今後スーダンやハイチ、コンゴで、どのように世銀と国連が 協調していくのか、具体的にconfrontしている点は何か…などなど、今後も議論を聞かせていただければ幸いです。
最後に、一番印象 に残ったのは、ビデオで出てきたボスニア人のインタビューに対して講師が触れられてた点でした。「あのボスニア人の男性は、『最初に一人、身内が殺された ときはショックだったが、その後次々に殺されて次第に慣れてなんとも思わなくなった』と言っているが、本当は今でも心の傷は深いはず。」 「Psycosocial outputとしての紛争や暴力という点は、これまでneglectされてきた分、triggerにばかり注目がいき、何が根本原因となっているかわかっ ていなかったことも多かった」と、おっしゃっていました。
深い悲しみ(grievances)と欲(greeds)が、憎悪や暴力、紛争 の形になるという研究もあります。ルワンダのガチャチャ裁判や、東ティモール・南アでの真実・受容・和解委員会では、真実を受け止め、許すという一連の心 の過程を通して、国民和解を推進していくプログラムが広く実施されてきました。DDRや4Rsなどの再統合のプログラムと同時に、忘れ去られがちな Truth & ReconciliationやTransitional justice、Psycosocial の問題に焦点を充てたプログラムも、両輪として進行していくことが大切だと思います。
今年の世銀の年次レポートのテーマは、 「Youth」だそうです。児童兵や若い兵士たちの多くは、失業や学校に行けないことで、食べていくために武器を持つことも多いようです。今後も、紛争と 開発、平和構築分野における、世銀の活躍・国連との援助協調に、注目していきたいと思います。
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Friday, February 24, 2006
60. Interview with Prof. Madam L on SC Reform
先日の投稿に続いて、今回はMadam L教授のインタビューについて。安保理改革について、主に、事務総長と事務局の立場からの見解を伺った。
■事務局の立場について
安 保理に、圧倒的に必要(absolutely necessary)な改革は、「effectiveness(working methods)」よりも「legitimacy(enlargement)」である。国際平和と安全保障を司る安保理として、そして事務局・PKO局に とっても、各地域の利害を代表する国が、安保理のメンバーに選ばれる、民主的な組織になるべきである。安保理決議の65%はアフリカに関することであるの に、アフリカは席が少ない。事務総長の立場(G4とAUの支持)は、明確だった。彼自身、どこに行っても、記者会見や懇談の中で、自分の立場を明らかにし ていた。が、当然、事務局に安保理改革を決める権限は、全くない。P1(米国)をはじめとした、理事国が決めることだ。現実的には、安保理拡大の道のり は、長いだろう。
■G4案について
先日も、小澤大使に説明してもらったが、今はどうやら、水面下でG(1+3)が進んでいるよ う。日本は単独で米国と調整しているようだが、代表国争いで分裂しているアフリカ(AU)とも、どこまで調整できるかが、鍵では。また、大使も少し触れて いたように、今年末のPKO予算のアセスメント(計算方式)の見直しの際に、どこまで日本が財政的なプレッシャーをかけるについて、様子を伺ってみたい。
■今後の安保理改革について
安 保理改革は、何も最近いいはじめたことではない。90年代から少しずつ、手続き(working methods)の改革を進め、透明性と効率を高める努力をしてきた。冷戦が終わり、安保理が再び機能しはじめた90年代、ソマリアやボスニアなど世界各 地で紛争が勃発、PKOミッションが急激に増えて、安保理の機能性と財政が危機に陥ったことがあった。以来、非公式会合の中で物事が決められていた方式か ら、少しずつではあるがprocedureの改善が行われてきた。
ユーゴ危機の際に開発された、アリア・フォーミュラ(関 係者・専門家を招いた非公式会合)をはじめとし、年に一週間のリトリート(理事国国連代表と事務総長、事務局トップが参加)、Thematic forum、関係国を招いた公式・非公式会合の増加、月ごとの議長国持ちまわり制、PKOミッションに参加している主な国々:Troops Contribution Countries(TCCs)(主にバングラディッシュやパキスタンなど)との定例会議など、透明性と参加を増やすよう努力してきた。今年からは、会議 の公開性を高めるために、SIPA関係者が学術的立場から、http://www.securitycouncilreport.orgを 立ち上げた。(敢えて、DPIではなく。)これまで、安保理は一般の人には、雲の上のような存在で何が話し合われているかわからなかっただろうが、こうし て明日、今月、何が話し合われるか、関係資料や過去の議論などについても、一般の人がアクセスしやすくなった。画期的である。
9/11以降、テロやエイズや貧困といったsoft threatsだが世界的な脅威が浮上、安全保障の意義を捉えなおす必要がでてきた。2003年初めのイラク攻撃の際には、hard threats に対する武力行使の見解で、安保理が分裂。カナダからは、Responsibility to protectなどの新しい概念が出てくる中、もう一度世界共通の「脅威」と「安全」とは何か、再定義しなおす必要が出てきた。そうして2003年9月にハイレベル・パネルを設置、新時代の脅威を再定義しなおし、安保理改革や国連改革について、より具体的な道筋をつけてきた。
昨 年末以来現在は、S5提案の安保理working methodsの改革(注1)を、積極的に進めている。今月の安保理議長国でP1の、米国ボルトン大使も、毎回定刻通りに始まらない安保理会合を、on timeに開始するよう提案、開始時刻になるとPKO局から15分程、現場報告を含めたデイリー・ブリーフィングを行うシステムを導入した。次の議長国が その方式を引き継ぐかは不明だが、今後もこうした小さなことから少しずつ(radicalではなく、incrementalに)、安保理の改善・改革を進 めていくことになるだろう。
注1:Working methodsの改革
先日の投稿で述べた、Small 5: スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、ヨルダン、コスタリカが中心になって、昨年秋に策定した安保理改革案。 「(昨年の)安保理拡大キャンペーンのモメンタムはそれなりに意義はあったが、安保理機能性の改善の重要性については見過ごされてきた。...ふたつは同 時に進めていくべき。...安保理の拡大には、憲章の改正と各国の批准が必要な一方で、機能性の改善は、憲章の改正を必要としない。」などとし、国連総会 との関係、拒否権の使用の制限、付属組織の改革などを、提言している。
などなど。相変わらず、情熱的なマダム・リンデン。同じ安 保理改革についての話を聞いたのですが、昨日のエド・ラックによる米見解とはまるで違う言語を話しているかのように、異なる言葉を使っていたのが印象的で した。米国対国連、P1と事務局のしのぎを削る様子の一端をかいま見たような気がしました。
■事務局の立場について
安 保理に、圧倒的に必要(absolutely necessary)な改革は、「effectiveness(working methods)」よりも「legitimacy(enlargement)」である。国際平和と安全保障を司る安保理として、そして事務局・PKO局に とっても、各地域の利害を代表する国が、安保理のメンバーに選ばれる、民主的な組織になるべきである。安保理決議の65%はアフリカに関することであるの に、アフリカは席が少ない。事務総長の立場(G4とAUの支持)は、明確だった。彼自身、どこに行っても、記者会見や懇談の中で、自分の立場を明らかにし ていた。が、当然、事務局に安保理改革を決める権限は、全くない。P1(米国)をはじめとした、理事国が決めることだ。現実的には、安保理拡大の道のり は、長いだろう。
■G4案について
先日も、小澤大使に説明してもらったが、今はどうやら、水面下でG(1+3)が進んでいるよ う。日本は単独で米国と調整しているようだが、代表国争いで分裂しているアフリカ(AU)とも、どこまで調整できるかが、鍵では。また、大使も少し触れて いたように、今年末のPKO予算のアセスメント(計算方式)の見直しの際に、どこまで日本が財政的なプレッシャーをかけるについて、様子を伺ってみたい。
■今後の安保理改革について
安 保理改革は、何も最近いいはじめたことではない。90年代から少しずつ、手続き(working methods)の改革を進め、透明性と効率を高める努力をしてきた。冷戦が終わり、安保理が再び機能しはじめた90年代、ソマリアやボスニアなど世界各 地で紛争が勃発、PKOミッションが急激に増えて、安保理の機能性と財政が危機に陥ったことがあった。以来、非公式会合の中で物事が決められていた方式か ら、少しずつではあるがprocedureの改善が行われてきた。
ユーゴ危機の際に開発された、アリア・フォーミュラ(関 係者・専門家を招いた非公式会合)をはじめとし、年に一週間のリトリート(理事国国連代表と事務総長、事務局トップが参加)、Thematic forum、関係国を招いた公式・非公式会合の増加、月ごとの議長国持ちまわり制、PKOミッションに参加している主な国々:Troops Contribution Countries(TCCs)(主にバングラディッシュやパキスタンなど)との定例会議など、透明性と参加を増やすよう努力してきた。今年からは、会議 の公開性を高めるために、SIPA関係者が学術的立場から、http://www.securitycouncilreport.orgを 立ち上げた。(敢えて、DPIではなく。)これまで、安保理は一般の人には、雲の上のような存在で何が話し合われているかわからなかっただろうが、こうし て明日、今月、何が話し合われるか、関係資料や過去の議論などについても、一般の人がアクセスしやすくなった。画期的である。
9/11以降、テロやエイズや貧困といったsoft threatsだが世界的な脅威が浮上、安全保障の意義を捉えなおす必要がでてきた。2003年初めのイラク攻撃の際には、hard threats に対する武力行使の見解で、安保理が分裂。カナダからは、Responsibility to protectなどの新しい概念が出てくる中、もう一度世界共通の「脅威」と「安全」とは何か、再定義しなおす必要が出てきた。そうして2003年9月にハイレベル・パネルを設置、新時代の脅威を再定義しなおし、安保理改革や国連改革について、より具体的な道筋をつけてきた。
昨 年末以来現在は、S5提案の安保理working methodsの改革(注1)を、積極的に進めている。今月の安保理議長国でP1の、米国ボルトン大使も、毎回定刻通りに始まらない安保理会合を、on timeに開始するよう提案、開始時刻になるとPKO局から15分程、現場報告を含めたデイリー・ブリーフィングを行うシステムを導入した。次の議長国が その方式を引き継ぐかは不明だが、今後もこうした小さなことから少しずつ(radicalではなく、incrementalに)、安保理の改善・改革を進 めていくことになるだろう。
注1:Working methodsの改革
先日の投稿で述べた、Small 5: スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、ヨルダン、コスタリカが中心になって、昨年秋に策定した安保理改革案。 「(昨年の)安保理拡大キャンペーンのモメンタムはそれなりに意義はあったが、安保理機能性の改善の重要性については見過ごされてきた。...ふたつは同 時に進めていくべき。...安保理の拡大には、憲章の改正と各国の批准が必要な一方で、機能性の改善は、憲章の改正を必要としない。」などとし、国連総会 との関係、拒否権の使用の制限、付属組織の改革などを、提言している。
などなど。相変わらず、情熱的なマダム・リンデン。同じ安 保理改革についての話を聞いたのですが、昨日のエド・ラックによる米見解とはまるで違う言語を話しているかのように、異なる言葉を使っていたのが印象的で した。米国対国連、P1と事務局のしのぎを削る様子の一端をかいま見たような気がしました。
Wednesday, February 22, 2006
59. Interview with Ed Luck on UN/SC Reform
今日は、PoPのCase Writingのため、国連安保理改革G4案について、主に米国の立場と見方を中心に、エドワード・ラック教授をインタビューした。気づいたら、2時間。とても興味深いお話だったので、記録も兼ねて。
E.L.教授は、SIPAのCenter on International OrganizationとUN Studies ProgramのDirector。今学期のInternational Enforcement and UN Security Councilのほか、Ameican Exceptionalism などの授業を、SIPAで教えている。もともとは、米のUN Association代 表を10年程務める。96年以降、ラザリ国連総会議長(当時)が提出しようとした安保理改革案の策定に関わって以来、現在も国連改革に中心的に携わる。先 学期は、Kofi Annan事務総長、Mark Malloch Brown (元UNDP総裁・現Chief de Cabinet in UN Secretariat)、Ann-Marie Slaughtor(Dean of Princeton, Woodrow Wilson)、George Mitchell元上院議員を、コロンビア大学に招いた国連改革討論会のホスト役を務めた。(過去の日記でも少しだけ触れました。)昨年4月には、米国連大使をSIPAに招いた講演会も主催。(こちらも。)Democratsで、ケリー民主党元大統領候補のアドバイザーなども務めたとのこと。今回のインタビューでも相変わらず、安保理改革について、現事務総長に対して、米人らしいシニカルで辛口なコメントを戴いた。
■米国の立場
ま ず、G4案については、ワシントンの誰に聞いても("Every Single Person I asked about it"と何度か強調して)「poorly timed, bad proposal」だと言われていた。日本の立場には皆同情的ではあるが、G4案については誰もサポートしていなかった。米ワシントンは、安保理改革その もについてでさえ、理事会のligitimacyの欠如と不平等性を認め、改革の必要性も認めるが、積極的に改革を推し進めるべきだとは思っていない。当 然、安保理の拡大の意図が、現在の米一国主義・覇権主義に対抗する、regional representativeとmulti-polarの強化なのであれば、米が本音で賛成するわけがない。安保理は、現在、歴史上、最もうまく機能して いる。拡大すれば、機能性が落ちる。ECOSOCなどは、拡大しすぎて、全く機能的していない。どんなに安保理を改革することになるとしても、米国が賛成 できるのは、20-21カ国までの拡大まで。ただでさえ批判の多い拒否権を、新メンバーにまで拡大させるというAUの提案は、非現実的である。
■G4について
味 方を作れば、その分、敵を作る。G4に反対するCoffee Clubには、アルゼンチン、パキスタン、イタリアを初め、カナダ、メキシコなど、多くの国が参加している。G4メンバーについては、第一に、ブラジル; 日本とは日系移民などで関係が深いというのもわかるが、他のラテン・アメリカとは、言葉も異なり、利益を代表していないため、地域からのサポートは決し て得られない。インドについては、パキスタンが反対するのは、自明である。また、日本と同時にアジアから二大ライバル国の常任理事国を出すことについて、 中国が賛成するわけがない。ドイツについては、米英イラク攻撃を支持しなかった怨念があり、米国は決して支持しない。第一、2003-2004年にドイツ が非常任理事国だった間は、彼らは何も目立った活躍をしなかった。フリー・ライダーの最も典型的な例である。(と、辛口。)
■日本について
米 国も私も、日本の常任入りについては、一貫して同情的であり支持をしている。昨年の12月に、訪日する機会があり、国連改革についての公演を各地で行っ た。(日本の好きな日米同盟の議論とかね、と一言。)が、常任入り作戦は、"operation by gaimu-sho"で、国民の総意ではない。小泉氏でさえ、片方で常任入りしたいと言い、片方で靖国へ行き、左と右が混在して矛盾している。本気で常任 入りの戦略があるようには見えない。中国との問題を解消するにしても、日本はどれだけ本気で常任入りしたいのか、そのためにはどこまで何を譲り諦められる のか、今後本気で考えたほうがいい。2003年秋のG4結成時点で、中国が強く反発していたことを、甘く見ていた。敵国条項の削除についてでさえ、いまだ に中国は反対している。過去の戦争の罪を忘れず、世界が平和でありつづけるために、今後もずっと残しておくべきだと主張しているくらいだ。国連改革は時間 がかかる。私が90年代からずっと提案してきた、副事務総長がマネジメントの実権をもつという改革案でさえ、実現に10年以上もかかっている。そんな国連 なので、敵国条項の削除については、とてつもない時間がかかるだろう。
■拒否権と大国主義について
拒否権についてさまざまな批判 があるのは理解するが、冷戦時代は、確実に、拒否権なしで乗り切ることは不可能だった。そもそも、現在の改革案の根底にある、「大国」が常任理事国になり 拒否権をもつべきだという考えがおかしい。P5(現在の常任理事国5カ国)は、1945年当時の「大国」ではない、「同盟」である。当時、中国は defeated powerであり、フランスはoccupied powerだった。最近、小諸島諸国連盟の 代表と話したが、43カ国の連盟である彼らは安保理改革については、驚くほど関心がない。大国が常任理事国入りすれば、小国の利害を代表するどころか、悪 影響を与えるだけである、という認識。援助やいくつかの外交カードとのトレード・オフは、もちろんどこの大国と小国の間でも裏で交わしているだろう。が、 実際の国連総会の投票は秘密投票なので、表ではG4案に賛成するという口上書を交わしたとしても、実際の投票で支持をしてくれるかどうかは、わからない。
■事務総長のG4案支持について
事 務総長が、昨年末までの安保理改革の遂行を強く押し、G4案を支持したこと(In larger freedomやHigh Level ReportでもA案としてもってくるなど)は、外交戦略的に見ても、「classic misjudgement」である。彼の周囲のアドバイザーでさえ、このタイミングで安保理改革は不可能、パッケージ案などは絶対に無理、G4案は支持す べきではない、と進言したが、事務総長は聞かず、G4支持に固執した。ワシントン側のシニカルな見方としては、事務総長はOil for Foodなどのスキャンダルの最中にいて、孤独だったため、大国の友達が欲しい心理状況だったんだろう、と話していたくらいだ。もともと、この話が始まっ たのは、2003年9月の国連総会の事務総長のスピーチからである。その年のはじめにイラク攻撃で安保理内が真っ二つに割れたこと、8月にはバグダッドで の国連事務所爆破テロで、後継者と目されていたセルジオ・デメロを失ったショックも、大きかったのだろう。ハイレベル・パネルを設置し、安保理改革を、突 然声高に言い始めた。日本がG4を結成し、積極的にキャンペーンを始めると、事務総長が支持し、各レポートでもA案として盛り込まれた。が、ワシントンが こうした動きに懐疑的冷笑的だったのは、先ほども述べたとおりである。
■Working Methodsの改革について
事務総長 は、最も難しい安保理改革から手をつけるべきだとか、パッケージ方式などという実施不可能な改革案を提案していたが、米国は簡単にできる改革から順々に進 めていく、という現実的な方針をとっている。現在、S5(スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、コスタリカ、ヨルダン)で進めている、安保理の Working methodsの改革から、機能性を強化していくことになるだろう。Membershipの改革は、よっぽどまた世界に何かが起きるまでは、相当先の話に なるだろう。
などなど。特に、事務総長の個人攻撃は、結構激しかった。明日は、事務総長の側近といわれる、Madam L教授にインタビューする。どうなることやら。
E.L.教授は、SIPAのCenter on International OrganizationとUN Studies ProgramのDirector。今学期のInternational Enforcement and UN Security Councilのほか、Ameican Exceptionalism などの授業を、SIPAで教えている。もともとは、米のUN Association代 表を10年程務める。96年以降、ラザリ国連総会議長(当時)が提出しようとした安保理改革案の策定に関わって以来、現在も国連改革に中心的に携わる。先 学期は、Kofi Annan事務総長、Mark Malloch Brown (元UNDP総裁・現Chief de Cabinet in UN Secretariat)、Ann-Marie Slaughtor(Dean of Princeton, Woodrow Wilson)、George Mitchell元上院議員を、コロンビア大学に招いた国連改革討論会のホスト役を務めた。(過去の日記でも少しだけ触れました。)昨年4月には、米国連大使をSIPAに招いた講演会も主催。(こちらも。)Democratsで、ケリー民主党元大統領候補のアドバイザーなども務めたとのこと。今回のインタビューでも相変わらず、安保理改革について、現事務総長に対して、米人らしいシニカルで辛口なコメントを戴いた。
■米国の立場
ま ず、G4案については、ワシントンの誰に聞いても("Every Single Person I asked about it"と何度か強調して)「poorly timed, bad proposal」だと言われていた。日本の立場には皆同情的ではあるが、G4案については誰もサポートしていなかった。米ワシントンは、安保理改革その もについてでさえ、理事会のligitimacyの欠如と不平等性を認め、改革の必要性も認めるが、積極的に改革を推し進めるべきだとは思っていない。当 然、安保理の拡大の意図が、現在の米一国主義・覇権主義に対抗する、regional representativeとmulti-polarの強化なのであれば、米が本音で賛成するわけがない。安保理は、現在、歴史上、最もうまく機能して いる。拡大すれば、機能性が落ちる。ECOSOCなどは、拡大しすぎて、全く機能的していない。どんなに安保理を改革することになるとしても、米国が賛成 できるのは、20-21カ国までの拡大まで。ただでさえ批判の多い拒否権を、新メンバーにまで拡大させるというAUの提案は、非現実的である。
■G4について
味 方を作れば、その分、敵を作る。G4に反対するCoffee Clubには、アルゼンチン、パキスタン、イタリアを初め、カナダ、メキシコなど、多くの国が参加している。G4メンバーについては、第一に、ブラジル; 日本とは日系移民などで関係が深いというのもわかるが、他のラテン・アメリカとは、言葉も異なり、利益を代表していないため、地域からのサポートは決し て得られない。インドについては、パキスタンが反対するのは、自明である。また、日本と同時にアジアから二大ライバル国の常任理事国を出すことについて、 中国が賛成するわけがない。ドイツについては、米英イラク攻撃を支持しなかった怨念があり、米国は決して支持しない。第一、2003-2004年にドイツ が非常任理事国だった間は、彼らは何も目立った活躍をしなかった。フリー・ライダーの最も典型的な例である。(と、辛口。)
■日本について
米 国も私も、日本の常任入りについては、一貫して同情的であり支持をしている。昨年の12月に、訪日する機会があり、国連改革についての公演を各地で行っ た。(日本の好きな日米同盟の議論とかね、と一言。)が、常任入り作戦は、"operation by gaimu-sho"で、国民の総意ではない。小泉氏でさえ、片方で常任入りしたいと言い、片方で靖国へ行き、左と右が混在して矛盾している。本気で常任 入りの戦略があるようには見えない。中国との問題を解消するにしても、日本はどれだけ本気で常任入りしたいのか、そのためにはどこまで何を譲り諦められる のか、今後本気で考えたほうがいい。2003年秋のG4結成時点で、中国が強く反発していたことを、甘く見ていた。敵国条項の削除についてでさえ、いまだ に中国は反対している。過去の戦争の罪を忘れず、世界が平和でありつづけるために、今後もずっと残しておくべきだと主張しているくらいだ。国連改革は時間 がかかる。私が90年代からずっと提案してきた、副事務総長がマネジメントの実権をもつという改革案でさえ、実現に10年以上もかかっている。そんな国連 なので、敵国条項の削除については、とてつもない時間がかかるだろう。
■拒否権と大国主義について
拒否権についてさまざまな批判 があるのは理解するが、冷戦時代は、確実に、拒否権なしで乗り切ることは不可能だった。そもそも、現在の改革案の根底にある、「大国」が常任理事国になり 拒否権をもつべきだという考えがおかしい。P5(現在の常任理事国5カ国)は、1945年当時の「大国」ではない、「同盟」である。当時、中国は defeated powerであり、フランスはoccupied powerだった。最近、小諸島諸国連盟の 代表と話したが、43カ国の連盟である彼らは安保理改革については、驚くほど関心がない。大国が常任理事国入りすれば、小国の利害を代表するどころか、悪 影響を与えるだけである、という認識。援助やいくつかの外交カードとのトレード・オフは、もちろんどこの大国と小国の間でも裏で交わしているだろう。が、 実際の国連総会の投票は秘密投票なので、表ではG4案に賛成するという口上書を交わしたとしても、実際の投票で支持をしてくれるかどうかは、わからない。
■事務総長のG4案支持について
事 務総長が、昨年末までの安保理改革の遂行を強く押し、G4案を支持したこと(In larger freedomやHigh Level ReportでもA案としてもってくるなど)は、外交戦略的に見ても、「classic misjudgement」である。彼の周囲のアドバイザーでさえ、このタイミングで安保理改革は不可能、パッケージ案などは絶対に無理、G4案は支持す べきではない、と進言したが、事務総長は聞かず、G4支持に固執した。ワシントン側のシニカルな見方としては、事務総長はOil for Foodなどのスキャンダルの最中にいて、孤独だったため、大国の友達が欲しい心理状況だったんだろう、と話していたくらいだ。もともと、この話が始まっ たのは、2003年9月の国連総会の事務総長のスピーチからである。その年のはじめにイラク攻撃で安保理内が真っ二つに割れたこと、8月にはバグダッドで の国連事務所爆破テロで、後継者と目されていたセルジオ・デメロを失ったショックも、大きかったのだろう。ハイレベル・パネルを設置し、安保理改革を、突 然声高に言い始めた。日本がG4を結成し、積極的にキャンペーンを始めると、事務総長が支持し、各レポートでもA案として盛り込まれた。が、ワシントンが こうした動きに懐疑的冷笑的だったのは、先ほども述べたとおりである。
■Working Methodsの改革について
事務総長 は、最も難しい安保理改革から手をつけるべきだとか、パッケージ方式などという実施不可能な改革案を提案していたが、米国は簡単にできる改革から順々に進 めていく、という現実的な方針をとっている。現在、S5(スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、コスタリカ、ヨルダン)で進めている、安保理の Working methodsの改革から、機能性を強化していくことになるだろう。Membershipの改革は、よっぽどまた世界に何かが起きるまでは、相当先の話に なるだろう。
などなど。特に、事務総長の個人攻撃は、結構激しかった。明日は、事務総長の側近といわれる、Madam L教授にインタビューする。どうなることやら。
Tuesday, February 21, 2006
58. Team Torture...
さて、いろいろ書きたいことが溜まってきた。学校の方も結構忙しい。3学期目のグループ・ワークなどについて、少し。
International Human Rights: Law, Politics, & Institution のクラスでは、以前にも書いたように、3月下旬に模擬裁判のrequirementがある。私は希望通り、グアンタナモ米軍基地のテロリスト拘束収容所に 関する裁判に割り当てられた。そこまではよかったが、なんと米軍擁護のグループに振り当てられていた…。チーム・メイトは、他3人。メール上では既に、 "Team Torture"と呼び合い、さっそくチームの結束を固めている。どうなることやら。
このケースについては、つい先日タイミングよく、国連人権委員会がグアンタナモ基地の拘束施設を閉鎖するよう勧告を出した。(朝日新聞記事)が、当然ラムズフェルド米国防長官や米上院議員は、テロとの闘いに必要な処置である、と譲っていない。(BBC記事)しかし、南ア・ツツ司教や英大臣など国際社会だけでなく、クリントン元大統領などからも、閉鎖を求める声は高まっている。(BBC記事)我 々Team Tortureは、反論の余地を見出さなければいけない。そういえば、1年前にとった国際法の授業の最終試験でも、国防長官宛てに、イラク・アブグレイブ 収容所の虐待と拷問について、収容所の責任者をどのように処置するか、legal memoを書きなさい、という問題が出た。何を書いたか、今となってはほとんど覚えていないが…。うーん、頑張ろう…。
Conflict Assessmentの授業では、グループ・ワークではないが、各自、国とクライアントを選んで、Assessment Methodologyを使って分析し、発表する。私は、スーダンのダルフールを、世銀のmethodologyを使って、分析することにした。提案には 先生からGoサインが出たが、実際のところ、ダルフールは、PKOミッションの設立さえ、まだ決議されてない。世銀の出番は時期尚早…、という結論になる のかしら。
一方のPolitics of Policy Making のCase writingは、4人のチームで、安保理改革G4案を巡る攻防について。それとは別にとっている、Lindenmayer教授の SC/PKO in Africa の授業でも、先日、安保理改革についてのペーパーを書かされた。先生が小澤国連大使をクラスに招いてくださったこともあり、PoPのグループ・ワークの方 は順調。アウトラインはほぼ出来上がった。明日、あさってと、Edward Luck教授、Lidenmayer教授をインタビュー、小澤大使にも、3月にもう一度インタビューすることになっている。
個人的には、 昔は日本の常任入りは時期尚早なのではないのかしら、野心的な人たちの考え?と懐疑的だったが、この1年間、M参事官による安保理勉強会や、フォーラム勉 強会、そして二度の安保理傍聴などの中で、私の認識も変わった。思えば1年前、まだSIPAに入学したての頃に、下記のクルド難民の突然の強制送還の ニュースに驚き、当時とっていたManagement of UN Systemのクラスの中で日本とドイツの安保理入りについて、あまりに楽観的に意欲を示していたDirk Salomons先生のところへ抗議?しに行ったことがあった。日本国内には教科書問題や難民の強制送還など様々な問題があるし、安保理入りの意義も国民 に充分理解されてない。まだあまり楽観できるような状況ではないかもしれない、と言った覚えが。元気だったなあ。今は、安保理改革はできれば早急に、日本 はその推進役を担う過程の中で、中国との関係、ODA改革、難民の受け入れについて、同時進行で改善を推し進めていくべきである、と思う。靖国や歴史問題 についても、ODA0.7%議論にしても、安保理改革がテコになってくれたらとは思う。
しかし、最早、世の中は、人権理事会の創設と次期事務総長選びに、話題が移っている。安保理改革についての議論は、しばらく棚上げとなりそうだ。
日 本では、「人権」というとActivistをイメージする方も多いかもしれないが、今や国連では、安全保障理事会、経済社会理事会(ECOSOC)に続 く、「人権理事会」の創設もあって、「human rights」は流行りである。安全保障・開発・人権の三つが、自由を支える柱である、という概念を、昨年、国連が明確に打ち出したことが背景にある。国 連フォーラムでも、勉強会や議論が活発に続いた。開発業界の中でも、Rights-based approachがメイン・ストリーム化されたり、民主化やガバナンスの中でもRule of Law(法の支配)とHuman rights(人権)の概念は基礎となったりする。私もさんざ迷った挙句、Concentrationはhuman rightsで卒業することになりそうである。何故、人権?と日本人の同級生に聞かれることが多いが、本当のところは、流行りモノが好きな私はトレンドに のっているだけである。(Requirement数が少ない分、Coreの多いMPAには、Securityを選ぶよりも現実的だったという理由もあ る。)
でもよく考えると、一番初めに国際人権に関心をもったきっかけは、報道局時代だった。毎日毎日APとロイターが、アフガニスタン、 パレスチナ、カシミール、ネパールなど、世界中から繰り返し送ってくるグロテスクな映像をモニターしているうちに、素朴に戦時中の人権について疑問に思っ た。長い間、国際報道の映像の仕事をしていれば、次第に、何を見ても聞いても、動じなくなり、感じなくなる。米軍のアルカイダ掃討作戦、イスラエル軍のイ ンティファーダへの報復、テロの応酬や各地でのデモなど、9・11以降の1年は、特に異常だったのかもしれない。未だに、脳裏に焼きついている叫び声や死 体は、幾つもある。映像の力は強い。今はきっと、イラクから毎日繰り返し送られてくるテロの映像を、かつての同僚らがモニターし編集しつづけていることだ ろう。編集作業は、国民の夕飯のお茶の間に流せる部分だけを、編集マンに抜き出してもらい、音声原稿に貼り付ける。残虐なシーンや死体は、決してお茶の間 には流さない。だから、日本人は、世界で何が起きているか、あまり知らされない。
生でないだけマシだったのかもしれないが、報道局や編集 室に篭って編集していると、映像に映るパレスチナ難民のつんざくような哀しみも、アフガン難民の帰還の喜びも、次第に現実味を帯びなくなってくる。ニュー スは生ものだから、古くなれば捨てる。私の場合は、何を見ても何も感じなくなり、テレビ的価値しか見出せなくなってしまった自分に、ある日とてつもなく嫌 気が差し、早く現実の普通の世界に戻りたいと思うようになった。憎しみと怒りと哀しみに血塗られた幾つもの死を覗き見する間に、心に溜まってしまった穢れ や感情のかすを、どこかで吐き出し、洗い流したかった。早いところフィールドにでも行こう、せめてもの罪滅ぼしに、いつか国際法と人権のことでも勉強しよ う、と思った。
まあ、そんな訳で、human rightsをとっているのだ。それにたまたま運よく、最近の国連のトレンドが重なっただけで、本当のところ は、過去の罪滅ぼしの延長でしかない。言い訳がましくて、申し訳ない。
日本のお茶の間の皆さん、ごめんなさい! 世界ではいろいろ起きて たけど、み~んなカットしてしまったか、見て見ぬふりでした。皆さんが、夕飯を食べながら、ニュースを見られるように。もし海外で何が起きているかを見て みたかったら、夕飯時のニュースではないドキュメンタリーなどの番組を見るか、海外のテレビを見てみるといいかも…。
以上、徒然なるままに、三学期について。
えー、ところで、経済の授業は…。 ;;
International Human Rights: Law, Politics, & Institution のクラスでは、以前にも書いたように、3月下旬に模擬裁判のrequirementがある。私は希望通り、グアンタナモ米軍基地のテロリスト拘束収容所に 関する裁判に割り当てられた。そこまではよかったが、なんと米軍擁護のグループに振り当てられていた…。チーム・メイトは、他3人。メール上では既に、 "Team Torture"と呼び合い、さっそくチームの結束を固めている。どうなることやら。
このケースについては、つい先日タイミングよく、国連人権委員会がグアンタナモ基地の拘束施設を閉鎖するよう勧告を出した。(朝日新聞記事)が、当然ラムズフェルド米国防長官や米上院議員は、テロとの闘いに必要な処置である、と譲っていない。(BBC記事)しかし、南ア・ツツ司教や英大臣など国際社会だけでなく、クリントン元大統領などからも、閉鎖を求める声は高まっている。(BBC記事)我 々Team Tortureは、反論の余地を見出さなければいけない。そういえば、1年前にとった国際法の授業の最終試験でも、国防長官宛てに、イラク・アブグレイブ 収容所の虐待と拷問について、収容所の責任者をどのように処置するか、legal memoを書きなさい、という問題が出た。何を書いたか、今となってはほとんど覚えていないが…。うーん、頑張ろう…。
Conflict Assessmentの授業では、グループ・ワークではないが、各自、国とクライアントを選んで、Assessment Methodologyを使って分析し、発表する。私は、スーダンのダルフールを、世銀のmethodologyを使って、分析することにした。提案には 先生からGoサインが出たが、実際のところ、ダルフールは、PKOミッションの設立さえ、まだ決議されてない。世銀の出番は時期尚早…、という結論になる のかしら。
一方のPolitics of Policy Making のCase writingは、4人のチームで、安保理改革G4案を巡る攻防について。それとは別にとっている、Lindenmayer教授の SC/PKO in Africa の授業でも、先日、安保理改革についてのペーパーを書かされた。先生が小澤国連大使をクラスに招いてくださったこともあり、PoPのグループ・ワークの方 は順調。アウトラインはほぼ出来上がった。明日、あさってと、Edward Luck教授、Lidenmayer教授をインタビュー、小澤大使にも、3月にもう一度インタビューすることになっている。
個人的には、 昔は日本の常任入りは時期尚早なのではないのかしら、野心的な人たちの考え?と懐疑的だったが、この1年間、M参事官による安保理勉強会や、フォーラム勉 強会、そして二度の安保理傍聴などの中で、私の認識も変わった。思えば1年前、まだSIPAに入学したての頃に、下記のクルド難民の突然の強制送還の ニュースに驚き、当時とっていたManagement of UN Systemのクラスの中で日本とドイツの安保理入りについて、あまりに楽観的に意欲を示していたDirk Salomons先生のところへ抗議?しに行ったことがあった。日本国内には教科書問題や難民の強制送還など様々な問題があるし、安保理入りの意義も国民 に充分理解されてない。まだあまり楽観できるような状況ではないかもしれない、と言った覚えが。元気だったなあ。今は、安保理改革はできれば早急に、日本 はその推進役を担う過程の中で、中国との関係、ODA改革、難民の受け入れについて、同時進行で改善を推し進めていくべきである、と思う。靖国や歴史問題 についても、ODA0.7%議論にしても、安保理改革がテコになってくれたらとは思う。
しかし、最早、世の中は、人権理事会の創設と次期事務総長選びに、話題が移っている。安保理改革についての議論は、しばらく棚上げとなりそうだ。
日 本では、「人権」というとActivistをイメージする方も多いかもしれないが、今や国連では、安全保障理事会、経済社会理事会(ECOSOC)に続 く、「人権理事会」の創設もあって、「human rights」は流行りである。安全保障・開発・人権の三つが、自由を支える柱である、という概念を、昨年、国連が明確に打ち出したことが背景にある。国 連フォーラムでも、勉強会や議論が活発に続いた。開発業界の中でも、Rights-based approachがメイン・ストリーム化されたり、民主化やガバナンスの中でもRule of Law(法の支配)とHuman rights(人権)の概念は基礎となったりする。私もさんざ迷った挙句、Concentrationはhuman rightsで卒業することになりそうである。何故、人権?と日本人の同級生に聞かれることが多いが、本当のところは、流行りモノが好きな私はトレンドに のっているだけである。(Requirement数が少ない分、Coreの多いMPAには、Securityを選ぶよりも現実的だったという理由もあ る。)
でもよく考えると、一番初めに国際人権に関心をもったきっかけは、報道局時代だった。毎日毎日APとロイターが、アフガニスタン、 パレスチナ、カシミール、ネパールなど、世界中から繰り返し送ってくるグロテスクな映像をモニターしているうちに、素朴に戦時中の人権について疑問に思っ た。長い間、国際報道の映像の仕事をしていれば、次第に、何を見ても聞いても、動じなくなり、感じなくなる。米軍のアルカイダ掃討作戦、イスラエル軍のイ ンティファーダへの報復、テロの応酬や各地でのデモなど、9・11以降の1年は、特に異常だったのかもしれない。未だに、脳裏に焼きついている叫び声や死 体は、幾つもある。映像の力は強い。今はきっと、イラクから毎日繰り返し送られてくるテロの映像を、かつての同僚らがモニターし編集しつづけていることだ ろう。編集作業は、国民の夕飯のお茶の間に流せる部分だけを、編集マンに抜き出してもらい、音声原稿に貼り付ける。残虐なシーンや死体は、決してお茶の間 には流さない。だから、日本人は、世界で何が起きているか、あまり知らされない。
生でないだけマシだったのかもしれないが、報道局や編集 室に篭って編集していると、映像に映るパレスチナ難民のつんざくような哀しみも、アフガン難民の帰還の喜びも、次第に現実味を帯びなくなってくる。ニュー スは生ものだから、古くなれば捨てる。私の場合は、何を見ても何も感じなくなり、テレビ的価値しか見出せなくなってしまった自分に、ある日とてつもなく嫌 気が差し、早く現実の普通の世界に戻りたいと思うようになった。憎しみと怒りと哀しみに血塗られた幾つもの死を覗き見する間に、心に溜まってしまった穢れ や感情のかすを、どこかで吐き出し、洗い流したかった。早いところフィールドにでも行こう、せめてもの罪滅ぼしに、いつか国際法と人権のことでも勉強しよ う、と思った。
まあ、そんな訳で、human rightsをとっているのだ。それにたまたま運よく、最近の国連のトレンドが重なっただけで、本当のところ は、過去の罪滅ぼしの延長でしかない。言い訳がましくて、申し訳ない。
日本のお茶の間の皆さん、ごめんなさい! 世界ではいろいろ起きて たけど、み~んなカットしてしまったか、見て見ぬふりでした。皆さんが、夕飯を食べながら、ニュースを見られるように。もし海外で何が起きているかを見て みたかったら、夕飯時のニュースではないドキュメンタリーなどの番組を見るか、海外のテレビを見てみるといいかも…。
以上、徒然なるままに、三学期について。
えー、ところで、経済の授業は…。 ;;
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