Monday, March 13, 2006

63. AFS again... in NY.

昨晩、AFS日本協会・NY友の会懇親会に初めて出席してきた。日本協会東京事務 所でお世話になった職員の方をお迎えするというので、同世代との出会いでもあるかしらと期待していったら、団塊の世代のおじさま・おばさまばかりの中に、私一人ポツン と若輩者。JBIC審議役、代表部公使、民間企業の重役、在米法律家など、そうそうたるメンバーの中で、内心オロオロしながら、できるかぎり隅の方でお行儀よく大人しく、引きつった笑顔で座っていた。しかし、ちょうどいいところに若い女性が来た…と煽てられ、いい気になったところで、少しだけお手伝いする羽目になりそうである。

私が大学時代の4年間のほぼ全てを注ぎ込んだAFS日本協会神奈川支部は、高校留学を通じた国際異文化理解教育を目的とする民間の財団法人(文部科学省下)である。日本では、先日、緒方貞子さん(Non "Returner")を招いて設立50周年を記念したばかりのようだったが、国際本部はNY にあり、1919年に活動が始まって以来、世界50カ国以上にオフィスを置いている。毎年、世界で11,000人、日本国内では400人以上の高校生(年間派遣生)を、欧米、中南米、ASEAN、北欧各国の高校へ派遣、同時に留学生を受入れている。日本国内に60以上の支部を持ち、ホスト・スクール、ホスト・ファミリーへのサポートなどをしながら、国際異文化理解教育の機会を、地域に提供している。AFS生は、言葉もわからない各国の高校と家庭に1年間放り込まれ、四苦八苦しながら言葉を覚え、異文化の壁を越えるAFS体験を通して、多様性と、異なる価値や尊厳の尊重、差異の尊重、寛容性を身につけてい く。(詳細はこちら。

AFS (American Field Service:米野戦奉仕団)の歴史は、もともと第一次世界大戦に遡る。パリにいたアメリカ人が、傷病兵を救護輸送するAmerican Ambulance (Service)の活動を始めたことが発端。一次大戦終了後、戦後の反省のもと、異文化理解教育を目的に、仏大学生を米国に送る、AFSフェローシップ・プログラムを開始。第二次大戦が始まると、傷病兵輸送サービスの活動を再開。中東、北アフリカ、ヨーロッパ、インド、ビルマなどで救護輸送を行い、1945年には、AFS救護輸送車ドライバー約70名が、ナチ強制収容所からのユダヤ人開放の輸送に従事。第二次大戦後、国際奨学金制度を設立。11カ国から 52名の大学生、高校生が米に派遣され、日本からは1954年、第1期生8人が氷川丸で渡米。以来、派遣・受入国は50カ国以上に広がり、現在までに、延べ32万5千人、日本国内では約1万人以上の高校留学生を輩出してきた。(詳細は、英語)よく、世界各国におけるAFSボランティア組織の裾野の広がりを、赤十字と比べたりするが、もともとは発祥の経緯にもあるようだ。個人的には、最近、国際人道法(戦争法)を勉強しているので、すっかり忘れていたこうした経緯は興味深くもある。皆さんの記憶にあるかもしれないのは、10年以上前に米で起きた、日本人留学生射殺事件かもしれない。事件後、遺族が中心になって米銃社会への規制を働きかけ、米日AFS事務所やAFSボランティア・ネットワーク(ホスト・スクール、ホスト・ファミリー、リターニー、ボランティア)もサポートした。

そうして派遣されたAFSリターニー(Returner: 留学経験者)は、最近は、日本国内でも、外交畑をはじめとし、政界、財界で、随分と活躍しているようだ。名簿については、悪用を恐れ、一切公表していないので、その全容は知れない。私自身は、大学時代ボランティアとしてあれだけの時間と精力をAFSに費やしたというのに、リターニーの現在のことを、あまり意識したこともなかったので、先日の懇親会まで、大御所がごろごろいることなど、ほどんど知らなかったので驚いてしまった。懇親会でも、だいぶ話題になったのが、S外務副大臣、I元軍縮大使(少子化担当大臣)、A広島市長をはじめ、各国大使。 (3月初めの国際本部代表訪日記事を 参照のこと。)NY周辺でさえわかっているだけで、O国連大使、T公使、N放送局F米総局長、A新聞米総局長ほか、上記前出メンバー。私の周りでも、東ティモールでもお世話になったUNICEFのU東京代表をはじめ、国連職員の中にも何人かAFSリターニーやボランティアがいる。時代の違いもあるだろうが、改めてみると、高校時におけるAFS留学は多くの人材を国内外に輩出しており、その教育的効果は計り知れないものがあるようだ。AFSが他の数ある留学プログラムや国際交流プログラムと圧倒的に異なるのは、その体験を、多様性の尊重と差異への寛容の精神、平和の追求、という国際社会の原則的価値に汎用させる、徹底したオリエンテーション(出発前・留学中・帰国後)と丁寧なサポートシステムによる教育的要素だと思う。それらを全てボランティアで回し、特定の宗教も政党も企業のバックもなく、純粋に、色をつけないようにやっているのだから、運営事務局はかなり大変である。

ここ数ヶ月間、SIPA同級生らと交わした、ODA議論、移民議論、難民議論、国内における「外国人問題」、中国との関係悪化に伴うナショナリズムの高揚に対する議論などを繰り返すにつけ、国内 における国際理解教育(異文化理解教育・開発教育の両方)が如何に大切かを思い知らされる。そういう意味で、AFSの使命と 役割の果たす効果は大きい。学生ボランティアをしていた大学生の頃は、ぼんやりとしか理解していなかったが、紛争解決や平和構築、和解の現場を見てのち勉強している今、改めて、異なる価値感や尊厳の尊重、寛容の精神が、平和な社会を実現するという、言葉の重みを痛感する。東京では最近、国内「外国人問題」 について、IOM(国際移民機関)を招いたシンポジウムが、 開かれたようである。前にも議論したが、移民や難民を受け入れるだけでなく、外国人観光客や海外投資を呼び寄せるには、日本社会も異文化を尊重する社会へと変容する必要があると思う。また、外相がAsia Wall Street Jornal に最近掲載した"Japan Welcomes China's Democratic Future"と題する意見記事も、 大変興味深かった。外相のいうように、日中の高校生数百人が、近い将来、交換留学をしあい、ホーム・ステイをする、そんな未来が本当にやって来るのだろうか、と思ってしまうほど、現状は悲観的でさえある。が、こういうのは、国内における地道な機会の提供で、時代と共にいずれ変わっていくものでもあるとも思 う。その意味で、AFSの役割は、改めて大きい。

興味深かったのは、今回の懇親会で、10期~14期の皆さんが、AFS日本支部を支えた大学生ボランティアだった頃の話に、華が咲いたときである。当時は、学生闘争の時代だったそうで、リターニー・学生ボランティアは、体制派と反体制派に分かれ、出国前オリエンテーション中に、新橋のビルの元で揉みあいになったり、羽田空港でビラが撒かれたりしたそうだ。あの時代に、米国に高校生を送ることが、センシティブだったのは想像に難くない。当時大学生ボランティアだった、Iさん(少子化担当大臣)やF元キャスター(N放送局米総局長)も、反体制派リターニーに潰されかかった日本事務局を守り、財団に申請する手続きをとるため、虎ノ門で一緒に奔走していた、という話を聞いたときは、にわかに信じがたかった。他には、今でもミャンマーからの留学生には政府から監視員がつくこと、中国からの留学生が帰国直前に帰りたくないと日本国内で逃走してしまった話など、様々なことが話題に出た。 ASEAN交流などの目的で留学生の数を増やすのは簡単だが、欧米ではなくASEANからの留学生を1年間預かってくれるホスト・ファミリーを日本で探すのは、容易ではない仕事だとも、話していた。

私自身は、高校生のとき、AFS留学から帰国した同級生に、御殿場で行われる5日間のサマー・キャンプに 誘われたのがきっかけだった。両親の許可を得て、お小遣いをはたいて参加。欧米の学生に会うのを楽しみにしていくと、そこには多くの中南米やアジアの高校生たちがいて驚いた。グループ・ワークを通して、モンゴルとタイからの留学生と仲良くなり、言葉や人種、文化の違いの壁を超えるのが楽しくて、将来は国際 関係の勉強をしようという動機にもなった。大学生になってから、AFSがキャンプ・スタッフを募集するというので、学生ボランティアに参加。御殿場でのイ ンターナショナル・サマー・キャンプの企画を中心に、各国留学生の受入プログラムのオリエンテーションや、神奈川支部の交流プログラムを、手伝った。毎日 のように新橋・虎ノ門の事務所に通い、夜中まで議論しあい、仲間と費やした濃密な時間は、いい思い出だ。

当時の大学生ボランティアの仲間は、高校時代、AFSで留学したメンバーが中心だった。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、メキシコ、コスタリカ、ベネズエラ、アメリカ、オーストラ リア、マレーシア、タイ…、帰国後は、日本社会への再適応と大学受験に苦しみながらも、強烈で特殊な体験をもとに自分の道を切り開いていっていた、当時の仲間から受けた刺激は大きい。私自身も、大学で国際関係学を学ぶ傍ら、AFSのいう異文化理解教育の重要性に気付いていた。当時企画していた、たった5日間のサマー・キャンプでさえ、日本人高校生200人と受入留学生50人に、どういう国際異文化体験をしてもらうか、留学に行けない高校生のために国内でできることは何か、どのようなきっかけを掴んでもらうか、どんなメッセージを伝えるか、大学生ボランティア50人をどうトレーニングするか、ということを、毎晩のように当時の仲間と、虎ノ門の事務所で遅くまで議論した。あまりにも毎晩、虎ノ門から終電で帰り、長電話で話し合うので、家族からは勘当すれすれだった。

本業の学業そっちのけで、どっぷりと漬かったAFSボランティアでの数年に疲れきり、また国際開発を勉強していたのでフィールドへ行ってみたい、私もAFSのような異文化体験をしたい、などなどの理由が重なって、大学4年生秋からCIEEという団体を通して、ガーナ大学に留学することに決心した。開発コンサル(三祐コンサルタンツ) やレストランなどのバイトを重ねてお金を貯め、アフリカに1年行きたいと家族に伝えると、母は泣いて反対したが、父は折れ、最終的には認めてもらえた。しかしその後、東ティモールでの仕事も、大学院留学でさえも、強い反対に合った。私が途上国に関わる仕事を選ぶことをようやく理解し、認めてくれるようになり、親との確執がなくなってきたのは、実はほんのこの1~2年のことである。だからこそ、異文化理解を日本社会に求める意識が、私は強いのかもしれない。 香港に仕事で3年住んでいた我が親や兄弟ですら、説得にこれだけの時間がかかったのだ。日本女性が、国際社会に出るまでには、場合によっては様々な障壁がある。男性には、そういった精神的労力は、想像もつかないかもしれない。

ガーナに留学していたときも、AFS事務所があると聞き、帰る前に一度だけ訪ねにいったことがあった。小さな事務所を訪れると、温かく迎え入れられ、それなりに嬉しかった。日本もいつか、ガーナを初めとしたアフリカの高校生との交換留学を始めればいいのに、と心から願う。昨年、ドイツを旅行したときには、一日だけ利用したケルンのユース・ホステルで、AFS大学生ボランティア相手のオリエンテーションに遭遇した。私も東京で同じようなことやってたよ~と、ひとしきり盛り上がった。ドイツでは、旧東ドイツ地域との交流や、東欧との交流にも、力を入れるらしい。

暫くは、AFS日本協会が現在3人しか受け入れていない中国の留学生を9人まで拡大するそうなので、それが遠い将来、どう発展するのかを、見届けたいと思う。ASEANプログラム同様、AFSが中国プログラムも広げていけたらいい、と願う。

ホスト・ファミリーは、年中、探しているようですので、ご関心のある方は、こちら。今年から、高校生だけでなく、大学生やシニア、子供も参加できるプログラムを拡大したようです(こちら)。まさかこの期に及んで、またAFSとの縁があるとは、夢にも思っていませんでしたが…。


(写真は、昨年、ドイツ・ケルンのユースホステルで遭遇したAFS学生ボランティア。)

Tuesday, March 7, 2006

62. Passing the Baton on Drinks

半年ほど前に、NからMixiで「酒バトン」が回ってきたのに、すっかりお返事してなくてごめんなさい。Kから「飲み会バトン」が回ってきたので、ふたついっぺんに。

Q1 酔うと基本的にどうなりますか?

あんまり変わらない。と、言いたいところですが…。先日は、全く違う普通の人を指して、松井がいる~、などと申しておりました。お恥ずかしい。

Q2 酔っ払ったときの最悪の失敗談は何ですか?

最悪とは言わないけれど、以前、耐え切れず、既に懺悔しましたとおり。(こちら続きの話。)友人Lには、心配かけた。でも、いろいろあったの…。(←いいわけ。)ええい、二十代の良き思い出として、笑い飛ばそう。

あ とは、十代のとき、大学時代、方々で語られた、品川ホームレス・ネタでしょうか。(懐かしいね~、Lib。)大学二年生のとき、AFSの新歓コンパで飲ま された帰り、山手線で寝てしまい、ぐるっと回った挙句、終電・終点の品川駅で駅員さんに起こされた。帰る術も無く、困り果てた末、自宅には友達のところに 泊まると電話し、実際は改札の外で始発を待つことに。外は春雨が降り始め、酔っ払いのサラリーマンに絡まれたり、薄着で寒がってたり、自己嫌悪に苛まれな がら心細く佇んでいたら、近くに座っていたホームレスのおじいさんが、段ボールと新聞を貸してくれた。これが暖かい! しつこく絡んできたサラリーマンは 諦めて去って行き、ホームレスのおじい様には、これからは気をつけない、とたしなめられる。段ボールの上で数時間、座って過ごした後、始発が来てから、お じいさんに御礼を言って帰ったのだが、暫くなかなか、その出来事が忘れられなかった。その後、当時世間で盛り上がっていた、都知事とホームレス問題につい て、豪人留学生(タニア…)のリサーチ通訳を手伝うことに。私もついでにゼミ論として、リサーチして発表したりしたんだっけ。懐かしい。学生らしくて、い い話だ。

Q3 そのときはどのくらい飲みましたか?

相当。

Q4 最悪の二日酔いはどんな感じでしたか?

頭痛に苛まれ、何をしようとしても、何も手につかない。仕方なく、水をたくさん飲む。そして三日酔いへ…。そして迎い酒へ…。

Q5 酔っ払って迷惑をかけた人にこの場で謝りましょう。

ダイアナ、ごめんなさい。家まで帰らせてくれて、本当に有難う。さもなくば、あの後、あの6階で昏睡していたかもしれませぬ。…恐ろしい。そして、品川のホームレスのおじいさん、有難う! 人を見かけで判断してはいけないと、そのとき学びました。

Q6 今冷蔵庫に入っているお酒の量は?

我 が家のルームメイト二人(一人は、元バーテンダー)と私の三人で、一つの冷蔵庫をシェアしているので、常時ビール7~8本程が収容限度。冷凍庫の方には、 前のルームメイトが置いていったカルーアとジンとウォッカが。今までは、常時、ワインかお酒があったけれど、最近は控えておりますので、今はない。

Q7 好きな銘柄は?

日本酒は、浦霞、酔鯨、八海山など。焼酎は、ほとんど飲まないけれど、兼八(ほんとに麦チョコ味でした)を、最近教えてもらった。銘柄ではないが、ワインの葡萄は、シャルドネ(白)か、メルロー(赤)を、選ぶことが多い。よく知らないから。

Q8 最近、最後に飲んだお店は?

ちょうど先週末、ミッドタウンの「酒蔵」で。K氏とA子と。

Q9 よく飲む思い入れのあるお酒は?

よくは飲まないけど、思い入れのあるお酒をふたつ。

ジン(Bombay Sapphire
昔、 大学一年生の頃、1ヵ月半程、NZでファーム・ステイをした際に覚えた。ホスト・ファミリーのお父さんが、よくジン・トニックを作って飲んでいて、時々私 にも作ってくれた。夕方、小さな牧場での仕事を終え、庭からライムを採ってきて、外のテーブルで飲むのが、美味しくて、忘れられず。社会人になってから、 あの綺麗な青いボトルが、Bombay Sapphireだったのを知り、感動。以来、今でも、何とかの一つ覚えで、カクテルはジン・トニックしかよく知らない。あとは、モヒートとか。さっぱり 辛口系が口に合うよう。

白ワイン(Vinho Verde
ポ ルトガル・ワイン。魚料理に合う、これもさっぱり辛口系でフルーティで美味しい。東ティモールでは、海岸の浜辺沿いに、点々と屋外の魚料理屋さんがある。 東ティというと、統治時代のインドネシアのイメージが大きい方も多いかもしれないが、独立後は、ポルトガル系やオーストラリア系のレストランやワインが多 く、私もよくいろいろ飲んだ。当時は、UNDPオフィスの代表と副代表が日本人と中国人で、East Asianの典型らしくハード・ワーカーの仕事の鬼が揃い、スタッフは皆、夜遅くまでオフィスに残って仕事をしていた時期だった。家に帰っても停電でシャ ワーも浴びれず暑苦しいので、発電機とクーラーとインターネット接続のあるオフィスに残って仕事を続ける。独立後で不安定な状況が長く続いていたことも手 伝って、オフィス全体でストレスが溜まっており、風邪やデング熱などで体調を崩す人が続いた。そこで、なるべく同僚同士で声を掛け合い、夕方になると、パ ソコンに張り付いている人も引っ張り出して、ジョギングやジムに出る。

美しい夕暮れの海岸沿いを走った後、シャワーも浴びずにオフィスに戻ることもあれ ば、少し余裕があるとレストランへ寄って、夕食後にまたオフィスへ戻り、深夜まで…、というパターンができた。夕食をさくっと済ませるときは、ジョギング の帰り道、浜辺のレストランで、捕れたての魚やイカを選んで焼いてもらい、サラダと食べる。しかし、ここでワインを飲んでしまうと、その後仕事にならな い。誘惑に負けて、軽めの白ワイン・Vihno Verdeを頼んでしまった日には、やはりオフィスに戻ってから、能率が上がらない。すごすごと家へ帰ると、やはり停電中で、シャワーも浴びれずに、ふて ねする…。翌日の朝には、電気は戻っているのだが、終わらなかった仕事を前に、後悔に苛まれる。誘惑のVinho Verde。フィールドでの生活とは、こんなでした…。お楽しみアレ。

















夕暮れのディリの海岸 ジョギング・コース photo by Hakan Ugurlu

Sunday, March 5, 2006

61. Conflict and Development

先日、国連フォーラムで、たまたま今、私が勉強していることについての勉強会があり、メーリング・リスト宛てに報告を書く機会がありました。ブログ用に少し訂正したものを、下記に引用しておきます。こんなことを勉強しています、のご報告がてら。

尚、「国連フォーラム」というのは、国連を中心とした情報・意見交換を目的とするフォーラムで、私も幹事を務めています。メーリング・リストを中心に、NYでの勉強会や、 フィールドからのレポートなども行っています。(今後は東京での勉強会も企画中のよう。)幹事会では、国連邦人職員会や外務省国連代表部の方々のリーダー シップのもと、我々コロンビア大(SIPA)やニューヨーク大(NYU)の学生が、運営のお手伝いをしています。ニューヨーク・ワシントン・ジュネーブ・ ロンドン・バングラディッシュ・東京を跨いで、日々やりとりし、立ち上げから約1年ちょっとの現在、メーリング・リスト参加者は約700人ほどになったよ うです。主に、国連邦人職員、外務省・JICA関係者、学生・NGO・メディア関係者などが多いようですが、MLですのでご関心があればどなたでも登録で きます。もし宜しければ、お気軽にご参加くださいな。(登録はこちらから)また、ワシントンDC開発フォーラムの姉妹版でもあるので、ご関心のある方は、そちらもご参考にされてみてください。

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先日、世界銀行NY事務所にて、社会開発局 紛争予防・復興支援ユニットのK氏による、「紛争と開発」と題する勉強会が開催されました。大変興味深い勉強会でしたので、皆さまにご報告いたします。

今回の勉強会では初めに、講師から用意された45分の世銀作ドキュメンタリー(英語)「Nation Zero」を見た後に、30分ほどお話いただき、質疑応答に移りました。このドキュメンタリーは、昨年5月に世銀から出された報告書「戦乱下の罠(Breaking the Conflict Trap: Civil War and Development Policy)」の日本語版作成に合わせ、日本信託基金で作られたもので、つい先々週、BBCでも放送されたそうです。

ド キュメンタリーは、紛争と開発の相関関係について、アフガニスタン、コロンビア、ボスニア、ルワンダの事例を取り上げてました。各地の紛争の映像を織り交 ぜながら、貧困との相関関係について、Paul Collier氏(Oxford大学教授・世銀上級アドバイザー)、Jeffery Sachs氏(Columbia大学教授・MDGs国連特別アドバイザー)、明石康氏などのインタビューをはさんで分析し、その後、それぞれのケースごと に、世銀の取り組みが紹介されていました。

衝撃的で迫力のある映像が効果的に使われていたのが印象的で、上映後は、出席者の多くから溜息 が漏れ、改めて私たちがフィールドから離れて取り組んでいる問題の深刻さを、見せつけられました。こうした世界の紛争と貧困の様子は、日本をはじめとし た、米、英などドナー諸国に住む一般納税者には、なかなか実感・認識しづらいことです。今回の上映では、貧困や紛争などの問題について、映像が視聴者に訴 える強さを、改めて認識させられました。

一方で、援助機関とドナー政府は、ODA額の引き上げを実施/要求するだけでなく、一般納税者に 対しアカウンタビリティーを積極的に果たしていくべきだとも、思いました。プログラムの実施を報告するだけでなく、取り組みの意図や問題意識を、映像を 使って問うことの重要性も感じました。多くの報告書やパンフレットが援助機関から出版されますが、それらに関心をもち理解する納税者は一体どれほどあるの か、以前、実際に自分で作っていて疑問に思ったことがあります。有名人や芸能人を途上国につれた広報目的のテレビ番組はいくつかありますが、今回のドキュ メンタリーのように、途上国の紛争や貧困と先進国の生活との直接の関係を視聴者に問い、問題意識を養うことも大切だと思います。教育チャンネルの中で開発 教育の番組を流すとか、ドキュメンタリー番組を作るなど、異なる対象者ごとに少しでも多くの途上国の現状と先進国の生活の乖離と関係を問う映像が、日本で も放送されるべきだと、常々個人的に思います。この点について、国連フォーラムやメディアの皆さまの率直なご意見も、お聞かせいただければ、光栄です。

さ て、勉強会では上映後に講師から「紛争と開発」の関係と世銀の取り組みについて、解説がありました。世界の最貧国20カ国のうち、80%以上が何らかの紛 争と暴力を経験しているだけでなく、紛争を解決した国の50%が、5年以内にまた紛争状態に戻ってしまう。冷戦後の90年代に各地で紛争が相次ぎ、現在で は、世銀貸付対象国184カ国のうち約1/4が何らかの形で紛争に関係している。こういった背景から、世銀も紛争時におけるDevelopmentの役割 を認識しなおし、ユニットを設立して、研究やアセスメント、国連との協調などを、この10年で進めてきた。東ティモール、アフガニスタン、イラク、リベリ ア、ハイチ、スーダン…と、少しずつlessons learned を生かしながら現場でのプログラム実施と援助協調の経験も積み上げてきている、…などなど。先日、ようやく平和構築委員会も設立され、今後、世銀がどのよ うに国連や他の機関と協調して、この分野で役割を果たしていくか、大変注目されているところであると思います。

質疑応答になると、出席者 からは主に、紛争と貧困の関係について質問がありました。貧困を解決するだけでは紛争や暴力は解決されないのでは; 絶対的貧困ではなく、相対的貧困のあ る社会、マージナライズされた格差、不平等が存在する社会で、選挙や何らかの事件をtriggerとして、紛争が始まることが多い; P5 (Permanent 5: 安保理常任理事国)の国々から貧困国へ流れる武器輸出やビデオの中でも出てきた麻薬やダイヤモンドなどの紛争資金源の問題をまず解決すべきである、などの 意見が相次ぎました。

私も、個人的には、たまたまConflict Assessmentという授業を大学院でとっている傍ら、今回の勉強会に参加したので、大変興味深い議論を伺う機会となりました。授業の中では、世銀の アセスメントだけでなく、DFID、USAID、Clingendael 、UNDPなど、様々な援助機関のアセスメントを比較してきましたが、世銀を含む幾つかの援助機関では、貧困を計る経済指標よりも、社会格差や不平等、 Justice Sector(司法)やSecurity Sector(軍・警察)の発達度、紛争アクターの国内外のリソースを測る指標などが、アセスメントの中に、多く取り上げられています。(JICAにもア セスメントがあると伺いましたが、どのようなアプローチをとっていらっしゃるのでしょうか。)紛争と開発については、貧困だけでなく、ガバナンスと紛争の 関係性も注視すべきだと思います。

また、質疑応答にもありましたが、昨年、世銀とUNDP、UNDGのために開発されたPost- Conflit Needs Assessment(PCNA)が、実際にどのように使われているのか、Conflict AssessmentとNeeds Assessmentとの関係、DPKOのオペレーションとはどのように刷り合わせているのか、今後スーダンやハイチ、コンゴで、どのように世銀と国連が 協調していくのか、具体的にconfrontしている点は何か…などなど、今後も議論を聞かせていただければ幸いです。

最後に、一番印象 に残ったのは、ビデオで出てきたボスニア人のインタビューに対して講師が触れられてた点でした。「あのボスニア人の男性は、『最初に一人、身内が殺された ときはショックだったが、その後次々に殺されて次第に慣れてなんとも思わなくなった』と言っているが、本当は今でも心の傷は深いはず。」 「Psycosocial outputとしての紛争や暴力という点は、これまでneglectされてきた分、triggerにばかり注目がいき、何が根本原因となっているかわかっ ていなかったことも多かった」と、おっしゃっていました。

深い悲しみ(grievances)と欲(greeds)が、憎悪や暴力、紛争 の形になるという研究もあります。ルワンダのガチャチャ裁判や、東ティモール・南アでの真実・受容・和解委員会では、真実を受け止め、許すという一連の心 の過程を通して、国民和解を推進していくプログラムが広く実施されてきました。DDRや4Rsなどの再統合のプログラムと同時に、忘れ去られがちな Truth & ReconciliationやTransitional justice、Psycosocial の問題に焦点を充てたプログラムも、両輪として進行していくことが大切だと思います。

今年の世銀の年次レポートのテーマは、 「Youth」だそうです。児童兵や若い兵士たちの多くは、失業や学校に行けないことで、食べていくために武器を持つことも多いようです。今後も、紛争と 開発、平和構築分野における、世銀の活躍・国連との援助協調に、注目していきたいと思います。

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Friday, February 24, 2006

60. Interview with Prof. Madam L on SC Reform

先日の投稿に続いて、今回はMadam L教授のインタビューについて。安保理改革について、主に、事務総長と事務局の立場からの見解を伺った。

■事務局の立場について
安 保理に、圧倒的に必要(absolutely necessary)な改革は、「effectiveness(working methods)」よりも「legitimacy(enlargement)」である。国際平和と安全保障を司る安保理として、そして事務局・PKO局に とっても、各地域の利害を代表する国が、安保理のメンバーに選ばれる、民主的な組織になるべきである。安保理決議の65%はアフリカに関することであるの に、アフリカは席が少ない。事務総長の立場(G4とAUの支持)は、明確だった。彼自身、どこに行っても、記者会見や懇談の中で、自分の立場を明らかにし ていた。が、当然、事務局に安保理改革を決める権限は、全くない。P1(米国)をはじめとした、理事国が決めることだ。現実的には、安保理拡大の道のり は、長いだろう。

■G4案について
先日も、小澤大使に説明してもらったが、今はどうやら、水面下でG(1+3)が進んでいるよ う。日本は単独で米国と調整しているようだが、代表国争いで分裂しているアフリカ(AU)とも、どこまで調整できるかが、鍵では。また、大使も少し触れて いたように、今年末のPKO予算のアセスメント(計算方式)の見直しの際に、どこまで日本が財政的なプレッシャーをかけるについて、様子を伺ってみたい。

■今後の安保理改革について
安 保理改革は、何も最近いいはじめたことではない。90年代から少しずつ、手続き(working methods)の改革を進め、透明性と効率を高める努力をしてきた。冷戦が終わり、安保理が再び機能しはじめた90年代、ソマリアやボスニアなど世界各 地で紛争が勃発、PKOミッションが急激に増えて、安保理の機能性と財政が危機に陥ったことがあった。以来、非公式会合の中で物事が決められていた方式か ら、少しずつではあるがprocedureの改善が行われてきた。

ユーゴ危機の際に開発された、アリア・フォーミュラ(関 係者・専門家を招いた非公式会合)をはじめとし、年に一週間のリトリート(理事国国連代表と事務総長、事務局トップが参加)、Thematic forum、関係国を招いた公式・非公式会合の増加、月ごとの議長国持ちまわり制、PKOミッションに参加している主な国々:Troops Contribution Countries(TCCs)(主にバングラディッシュやパキスタンなど)との定例会議など、透明性と参加を増やすよう努力してきた。今年からは、会議 の公開性を高めるために、SIPA関係者が学術的立場から、http://www.securitycouncilreport.orgを 立ち上げた。(敢えて、DPIではなく。)これまで、安保理は一般の人には、雲の上のような存在で何が話し合われているかわからなかっただろうが、こうし て明日、今月、何が話し合われるか、関係資料や過去の議論などについても、一般の人がアクセスしやすくなった。画期的である。

9/11以降、テロやエイズや貧困といったsoft threatsだが世界的な脅威が浮上、安全保障の意義を捉えなおす必要がでてきた。2003年初めのイラク攻撃の際には、hard threats に対する武力行使の見解で、安保理が分裂。カナダからは、Responsibility to protectなどの新しい概念が出てくる中、もう一度世界共通の「脅威」と「安全」とは何か、再定義しなおす必要が出てきた。そうして2003年9月にハイレベル・パネルを設置、新時代の脅威を再定義しなおし、安保理改革や国連改革について、より具体的な道筋をつけてきた。

昨 年末以来現在は、S5提案の安保理working methodsの改革(注1)を、積極的に進めている。今月の安保理議長国でP1の、米国ボルトン大使も、毎回定刻通りに始まらない安保理会合を、on timeに開始するよう提案、開始時刻になるとPKO局から15分程、現場報告を含めたデイリー・ブリーフィングを行うシステムを導入した。次の議長国が その方式を引き継ぐかは不明だが、今後もこうした小さなことから少しずつ(radicalではなく、incrementalに)、安保理の改善・改革を進 めていくことになるだろう。


注1:Working methodsの改革
先日の投稿で述べた、Small 5: スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、ヨルダン、コスタリカが中心になって、昨年秋に策定した安保理改革案。 「(昨年の)安保理拡大キャンペーンのモメンタムはそれなりに意義はあったが、安保理機能性の改善の重要性については見過ごされてきた。...ふたつは同 時に進めていくべき。...安保理の拡大には、憲章の改正と各国の批准が必要な一方で、機能性の改善は、憲章の改正を必要としない。」などとし、国連総会 との関係、拒否権の使用の制限、付属組織の改革などを、提言している。


などなど。相変わらず、情熱的なマダム・リンデン。同じ安 保理改革についての話を聞いたのですが、昨日のエド・ラックによる米見解とはまるで違う言語を話しているかのように、異なる言葉を使っていたのが印象的で した。米国対国連、P1と事務局のしのぎを削る様子の一端をかいま見たような気がしました。

Wednesday, February 22, 2006

59. Interview with Ed Luck on UN/SC Reform

今日は、PoPのCase Writingのため、国連安保理改革G4案について、主に米国の立場と見方を中心に、エドワード・ラック教授をインタビューした。気づいたら、2時間。とても興味深いお話だったので、記録も兼ねて。

E.L.教授は、SIPAのCenter on International OrganizationUN Studies ProgramのDirector。今学期のInternational Enforcement and UN Security Councilのほか、Ameican Exceptionalism などの授業を、SIPAで教えている。もともとは、米のUN Association代 表を10年程務める。96年以降、ラザリ国連総会議長(当時)が提出しようとした安保理改革案の策定に関わって以来、現在も国連改革に中心的に携わる。先 学期は、Kofi Annan事務総長、Mark Malloch Brown (元UNDP総裁・現Chief de Cabinet in UN Secretariat)、Ann-Marie Slaughtor(Dean of Princeton, Woodrow Wilson)、George Mitchell元上院議員を、コロンビア大学に招いた国連改革討論会のホスト役を務めた。(過去の日記でも少しだけ触れました。)昨年4月には、米国連大使をSIPAに招いた講演会も主催。(こちらも。)Democratsで、ケリー民主党元大統領候補のアドバイザーなども務めたとのこと。今回のインタビューでも相変わらず、安保理改革について、現事務総長に対して、米人らしいシニカルで辛口なコメントを戴いた。

■米国の立場
ま ず、G4案については、ワシントンの誰に聞いても("Every Single Person I asked about it"と何度か強調して)「poorly timed, bad proposal」だと言われていた。日本の立場には皆同情的ではあるが、G4案については誰もサポートしていなかった。米ワシントンは、安保理改革その もについてでさえ、理事会のligitimacyの欠如と不平等性を認め、改革の必要性も認めるが、積極的に改革を推し進めるべきだとは思っていない。当 然、安保理の拡大の意図が、現在の米一国主義・覇権主義に対抗する、regional representativeとmulti-polarの強化なのであれば、米が本音で賛成するわけがない。安保理は、現在、歴史上、最もうまく機能して いる。拡大すれば、機能性が落ちる。ECOSOCなどは、拡大しすぎて、全く機能的していない。どんなに安保理を改革することになるとしても、米国が賛成 できるのは、20-21カ国までの拡大まで。ただでさえ批判の多い拒否権を、新メンバーにまで拡大させるというAUの提案は、非現実的である。

■G4について
味 方を作れば、その分、敵を作る。G4に反対するCoffee Clubには、アルゼンチン、パキスタン、イタリアを初め、カナダ、メキシコなど、多くの国が参加している。G4メンバーについては、第一に、ブラジル;  日本とは日系移民などで関係が深いというのもわかるが、他のラテン・アメリカとは、言葉も異なり、利益を代表していないため、地域からのサポートは決し て得られない。インドについては、パキスタンが反対するのは、自明である。また、日本と同時にアジアから二大ライバル国の常任理事国を出すことについて、 中国が賛成するわけがない。ドイツについては、米英イラク攻撃を支持しなかった怨念があり、米国は決して支持しない。第一、2003-2004年にドイツ が非常任理事国だった間は、彼らは何も目立った活躍をしなかった。フリー・ライダーの最も典型的な例である。(と、辛口。)

■日本について
米 国も私も、日本の常任入りについては、一貫して同情的であり支持をしている。昨年の12月に、訪日する機会があり、国連改革についての公演を各地で行っ た。(日本の好きな日米同盟の議論とかね、と一言。)が、常任入り作戦は、"operation by gaimu-sho"で、国民の総意ではない。小泉氏でさえ、片方で常任入りしたいと言い、片方で靖国へ行き、左と右が混在して矛盾している。本気で常任 入りの戦略があるようには見えない。中国との問題を解消するにしても、日本はどれだけ本気で常任入りしたいのか、そのためにはどこまで何を譲り諦められる のか、今後本気で考えたほうがいい。2003年秋のG4結成時点で、中国が強く反発していたことを、甘く見ていた。敵国条項の削除についてでさえ、いまだ に中国は反対している。過去の戦争の罪を忘れず、世界が平和でありつづけるために、今後もずっと残しておくべきだと主張しているくらいだ。国連改革は時間 がかかる。私が90年代からずっと提案してきた、副事務総長がマネジメントの実権をもつという改革案でさえ、実現に10年以上もかかっている。そんな国連 なので、敵国条項の削除については、とてつもない時間がかかるだろう。

■拒否権と大国主義について
拒否権についてさまざまな批判 があるのは理解するが、冷戦時代は、確実に、拒否権なしで乗り切ることは不可能だった。そもそも、現在の改革案の根底にある、「大国」が常任理事国になり 拒否権をもつべきだという考えがおかしい。P5(現在の常任理事国5カ国)は、1945年当時の「大国」ではない、「同盟」である。当時、中国は defeated powerであり、フランスはoccupied powerだった。最近、小諸島諸国連盟の 代表と話したが、43カ国の連盟である彼らは安保理改革については、驚くほど関心がない。大国が常任理事国入りすれば、小国の利害を代表するどころか、悪 影響を与えるだけである、という認識。援助やいくつかの外交カードとのトレード・オフは、もちろんどこの大国と小国の間でも裏で交わしているだろう。が、 実際の国連総会の投票は秘密投票なので、表ではG4案に賛成するという口上書を交わしたとしても、実際の投票で支持をしてくれるかどうかは、わからない。

■事務総長のG4案支持について
事 務総長が、昨年末までの安保理改革の遂行を強く押し、G4案を支持したこと(In larger freedomやHigh Level ReportでもA案としてもってくるなど)は、外交戦略的に見ても、「classic misjudgement」である。彼の周囲のアドバイザーでさえ、このタイミングで安保理改革は不可能、パッケージ案などは絶対に無理、G4案は支持す べきではない、と進言したが、事務総長は聞かず、G4支持に固執した。ワシントン側のシニカルな見方としては、事務総長はOil for Foodなどのスキャンダルの最中にいて、孤独だったため、大国の友達が欲しい心理状況だったんだろう、と話していたくらいだ。もともと、この話が始まっ たのは、2003年9月の国連総会の事務総長のスピーチからである。その年のはじめにイラク攻撃で安保理内が真っ二つに割れたこと、8月にはバグダッドで の国連事務所爆破テロで、後継者と目されていたセルジオ・デメロを失ったショックも、大きかったのだろう。ハイレベル・パネルを設置し、安保理改革を、突 然声高に言い始めた。日本がG4を結成し、積極的にキャンペーンを始めると、事務総長が支持し、各レポートでもA案として盛り込まれた。が、ワシントンが こうした動きに懐疑的冷笑的だったのは、先ほども述べたとおりである。

■Working Methodsの改革について
事務総長 は、最も難しい安保理改革から手をつけるべきだとか、パッケージ方式などという実施不可能な改革案を提案していたが、米国は簡単にできる改革から順々に進 めていく、という現実的な方針をとっている。現在、S5(スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、コスタリカ、ヨルダン)で進めている、安保理の Working methodsの改革から、機能性を強化していくことになるだろう。Membershipの改革は、よっぽどまた世界に何かが起きるまでは、相当先の話に なるだろう。


などなど。特に、事務総長の個人攻撃は、結構激しかった。明日は、事務総長の側近といわれる、Madam L教授にインタビューする。どうなることやら。

Tuesday, February 21, 2006

58. Team Torture...

さて、いろいろ書きたいことが溜まってきた。学校の方も結構忙しい。3学期目のグループ・ワークなどについて、少し。

International Human Rights: Law, Politics, & Institution のクラスでは、以前にも書いたように、3月下旬に模擬裁判のrequirementがある。私は希望通り、グアンタナモ米軍基地のテロリスト拘束収容所に 関する裁判に割り当てられた。そこまではよかったが、なんと米軍擁護のグループに振り当てられていた…。チーム・メイトは、他3人。メール上では既に、 "Team Torture"と呼び合い、さっそくチームの結束を固めている。どうなることやら。

このケースについては、つい先日タイミングよく、国連人権委員会がグアンタナモ基地の拘束施設を閉鎖するよう勧告を出した。(朝日新聞記事)が、当然ラムズフェルド米国防長官や米上院議員は、テロとの闘いに必要な処置である、と譲っていない。(BBC記事)しかし、南ア・ツツ司教や英大臣など国際社会だけでなく、クリントン元大統領などからも、閉鎖を求める声は高まっている。(BBC記事)我 々Team Tortureは、反論の余地を見出さなければいけない。そういえば、1年前にとった国際法の授業の最終試験でも、国防長官宛てに、イラク・アブグレイブ 収容所の虐待と拷問について、収容所の責任者をどのように処置するか、legal memoを書きなさい、という問題が出た。何を書いたか、今となってはほとんど覚えていないが…。うーん、頑張ろう…。

Conflict Assessmentの授業では、グループ・ワークではないが、各自、国とクライアントを選んで、Assessment Methodologyを使って分析し、発表する。私は、スーダンのダルフールを、世銀のmethodologyを使って、分析することにした。提案には 先生からGoサインが出たが、実際のところ、ダルフールは、PKOミッションの設立さえ、まだ決議されてない。世銀の出番は時期尚早…、という結論になる のかしら。

一方のPolitics of Policy Making のCase writingは、4人のチームで、安保理改革G4案を巡る攻防について。それとは別にとっている、Lindenmayer教授の SC/PKO in Africa の授業でも、先日、安保理改革についてのペーパーを書かされた。先生が小澤国連大使をクラスに招いてくださったこともあり、PoPのグループ・ワークの方 は順調。アウトラインはほぼ出来上がった。明日、あさってと、Edward Luck教授、Lidenmayer教授をインタビュー、小澤大使にも、3月にもう一度インタビューすることになっている。

個人的には、 昔は日本の常任入りは時期尚早なのではないのかしら、野心的な人たちの考え?と懐疑的だったが、この1年間、M参事官による安保理勉強会や、フォーラム勉 強会、そして二度の安保理傍聴などの中で、私の認識も変わった。思えば1年前、まだSIPAに入学したての頃に、下記のクルド難民の突然の強制送還の ニュースに驚き、当時とっていたManagement of UN Systemのクラスの中で日本とドイツの安保理入りについて、あまりに楽観的に意欲を示していたDirk Salomons先生のところへ抗議?しに行ったことがあった。日本国内には教科書問題や難民の強制送還など様々な問題があるし、安保理入りの意義も国民 に充分理解されてない。まだあまり楽観できるような状況ではないかもしれない、と言った覚えが。元気だったなあ。今は、安保理改革はできれば早急に、日本 はその推進役を担う過程の中で、中国との関係、ODA改革、難民の受け入れについて、同時進行で改善を推し進めていくべきである、と思う。靖国や歴史問題 についても、ODA0.7%議論にしても、安保理改革がテコになってくれたらとは思う。

しかし、最早、世の中は、人権理事会の創設と次期事務総長選びに、話題が移っている。安保理改革についての議論は、しばらく棚上げとなりそうだ。

日 本では、「人権」というとActivistをイメージする方も多いかもしれないが、今や国連では、安全保障理事会、経済社会理事会(ECOSOC)に続 く、「人権理事会」の創設もあって、「human rights」は流行りである。安全保障・開発・人権の三つが、自由を支える柱である、という概念を、昨年、国連が明確に打ち出したことが背景にある。国 連フォーラムでも、勉強会や議論が活発に続いた。開発業界の中でも、Rights-based approachがメイン・ストリーム化されたり、民主化やガバナンスの中でもRule of Law(法の支配)とHuman rights(人権)の概念は基礎となったりする。私もさんざ迷った挙句、Concentrationはhuman rightsで卒業することになりそうである。何故、人権?と日本人の同級生に聞かれることが多いが、本当のところは、流行りモノが好きな私はトレンドに のっているだけである。(Requirement数が少ない分、Coreの多いMPAには、Securityを選ぶよりも現実的だったという理由もあ る。)

でもよく考えると、一番初めに国際人権に関心をもったきっかけは、報道局時代だった。毎日毎日APとロイターが、アフガニスタン、 パレスチナ、カシミール、ネパールなど、世界中から繰り返し送ってくるグロテスクな映像をモニターしているうちに、素朴に戦時中の人権について疑問に思っ た。長い間、国際報道の映像の仕事をしていれば、次第に、何を見ても聞いても、動じなくなり、感じなくなる。米軍のアルカイダ掃討作戦、イスラエル軍のイ ンティファーダへの報復、テロの応酬や各地でのデモなど、9・11以降の1年は、特に異常だったのかもしれない。未だに、脳裏に焼きついている叫び声や死 体は、幾つもある。映像の力は強い。今はきっと、イラクから毎日繰り返し送られてくるテロの映像を、かつての同僚らがモニターし編集しつづけていることだ ろう。編集作業は、国民の夕飯のお茶の間に流せる部分だけを、編集マンに抜き出してもらい、音声原稿に貼り付ける。残虐なシーンや死体は、決してお茶の間 には流さない。だから、日本人は、世界で何が起きているか、あまり知らされない。

生でないだけマシだったのかもしれないが、報道局や編集 室に篭って編集していると、映像に映るパレスチナ難民のつんざくような哀しみも、アフガン難民の帰還の喜びも、次第に現実味を帯びなくなってくる。ニュー スは生ものだから、古くなれば捨てる。私の場合は、何を見ても何も感じなくなり、テレビ的価値しか見出せなくなってしまった自分に、ある日とてつもなく嫌 気が差し、早く現実の普通の世界に戻りたいと思うようになった。憎しみと怒りと哀しみに血塗られた幾つもの死を覗き見する間に、心に溜まってしまった穢れ や感情のかすを、どこかで吐き出し、洗い流したかった。早いところフィールドにでも行こう、せめてもの罪滅ぼしに、いつか国際法と人権のことでも勉強しよ う、と思った。

まあ、そんな訳で、human rightsをとっているのだ。それにたまたま運よく、最近の国連のトレンドが重なっただけで、本当のところ は、過去の罪滅ぼしの延長でしかない。言い訳がましくて、申し訳ない。

日本のお茶の間の皆さん、ごめんなさい! 世界ではいろいろ起きて たけど、み~んなカットしてしまったか、見て見ぬふりでした。皆さんが、夕飯を食べながら、ニュースを見られるように。もし海外で何が起きているかを見て みたかったら、夕飯時のニュースではないドキュメンタリーなどの番組を見るか、海外のテレビを見てみるといいかも…。


以上、徒然なるままに、三学期について。
えー、ところで、経済の授業は…。  ;;

Monday, February 13, 2006

Sunday, February 12, 2006

56. Afghan Refugee, Ali Jan 2

Dからの訂正と伝言です。

アリジャン君の事件は、まだ東京高裁で控訴審が争われるところで、その後に最高裁へ行く可能性があるそうです。http://jlnr.net/mt/archives/000054.php#more 2月20日(月)午前11時に東京高裁835号法廷で控訴審があり、誰でも何も見せずに持たずに傍聴できるとのこと。東京にいてご関心がありお時間のある方は、この機会に是非覗いてみてください、と!

(以下、抜粋)
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【傍聴のお願い】アフガン難民アリ・ジャン高裁第一回期日
去る11月11日東京地方裁判所で勝訴判決をいただいたアフガン難民で,『母さん,ぼくは生きてます』の作者アリ・ジャンの件、7000人を超える控訴断念要請署名を提出しながら、控訴されてしまいましたが、控訴審の第1回期日が決まりました。

2006年2月20日(月)午前11時、東京高裁825号法廷です。

たくさんの方が注目しているということは、一審の裁判官の心を動かした大きな要因となっているのは間違いありません。

是非とも、法廷にお集まりいただき、裁判所に思いを伝えてください。

◆場所:東京高等裁判所825号法廷:東京メトロ霞ヶ関駅A1出口を出てすぐ
◆日時:2006年2月20日(月)午前11時

アフガン弁護団
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(以上)

上記、難民弁護団のサイトを 覗いてみると、日本にいるビルマ難民やクルド難民に対する、彼ら弁護団のご活躍ぶりも伺えます。下記では触れませんでしたが、一昨年、渋谷区青山のUN House(国連大学)前に長らく座り込んでいたトルコ系クルド難民については、記憶に新しい方もいらっしゃると思います。私は昨年はこちらにいたので、 UNHCRからの非難声明(ノン・ルフールマンの原則に反するという)のニュースを読んで初めて、彼らが強制送還されてしまったことを知りました。気の毒 に…、とは思っていましたが、Dら弁護団のご活躍ぶりを伺うと、更に頭の下がる思いがします。私がDのためにできることは、こうやってお知らせすることく らいでしょうか。

どうして難民を受け入れなくてはいけないのか、よくわからなかった方、この機会に是非、「日本の難民保護」http://www.unhcr.or.jp/protect/proj.html を覗いてみてくださいな。

そして、昨年夏にDが出版した本も是非、この機会に読んでみてくださ~い。彼女が弁護士として歩んできた軌跡が記されています。これも、涙なくして読めないよ~。

Friday, February 3, 2006

55. Afghan Refugee, Ali Jan


早 く読んでみたいといったら、Dがわざわざ日本から取り寄せてくれた。彼女ら弁護団やJICAの皆さんが支援してきたアフガン難民、アリ・ジャン君の手記。 Dは校閲としてこの本に関わっているほか、お話の中にもたびたび登場人物として触れられている。お話に出てくるMさんは、SIPA卒で、現在は UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)東京事務所で働いていらっしゃるよう。SIPA生、Oin生は、必読です。難民が日本で直面した現実の重さに、涙 なしには読めませぬ。

母国アフガニスタンでタリバン政権におびやかされ、パキスタンで会ったブローカーに日本の成田空港で騙され、行き場 を失った asylum seekers。収容所の独房で難民認定を待つアフガン難民約30人のうち、強制送還に怯えた半数以上が19件の自殺未遂を起こす。2001年~2002 年の日本国内の話だそうです。

ちなみに、本の帯には、表に島田紳助の「この国はたった1人の青年さえ救えないのか?」のキャッチ・コ ピー。裏には、アフガン支援の政府代表も務めた、前UNHCR代表・現JICA理事長の緒方貞子氏からの言葉。「私はアフガニスタンから日本へ保護を求め て来日する人々の扱いにつき、常々矛盾を感じていました。出入国管理のあり方についても、もっと個人の人間性の尊重にもとづいた対応が必要だと考え、申し 入れをしたこともありました。」

で、この本が出版されてしばらく後の2004年5月に、出入国管理及び難民認定法が初めて改正される。また昨年11月、東京地裁で行われたアリジャン君の難民認定を求める裁判は、Dら弁護団が勝訴した。しかし、その後法務省が控訴しているので、その後最高裁に行く可能性がある。

最近、移民議論が盛んである。大学院の必修の授業でも、最終試験のケースとして、移民政策がとりあげられた。世銀は、移民が母国(途上国)に送金する資金がこの10年で倍増し、全世界で1500億ドルを超えて、援助資金を上回ったと試算する(詳細)。そ の一方で、先日はUNDPのある方が日本の経験を引用し、その国が発展するかどうかは中間層の愛国心が鍵である、移民政策を推進するのは発展にとって逆効 果かもしれないとも、おっしゃっていた。移民鎖国の日本でも、フィリピンなどからの介護福祉士や看護士の受け入れが試み始められたところのようだが、ごく 一部の話である。

そのような背景からか、日本の難民政策についての話になると、よく移民政策が引き合いに出される。が、問題が全く異なるような気がしてならない。政治的迫害を怖れて逃れてきたasylum seekers, 難民の認定は、経済移民とは問題が根本的に異なる。母国で迫害を受けるおそれのある難民を強制送還するのは、難民条約に違反し(注1)、ノン・ルフールマンの原則にも反する(注2)。アリジャン君の難民認定に関する、上記最高裁の行方が、気になる。

SIPA の皆さん、特にお国のために働いていらっしゃるみなさま、もしよかったら読んでみてください。僕には関係ないかしら? わかってはいるけれど…。学生の一 部で、本を出版する話もあるようですし。SIPA卒業生やNYUの学生が関わった本として、ご参考までに是非。SIPAで学んだことの一助として読んでく だったら、幸いです。そして、できたら社会を動かすこんな本にしてくらさい。一声かけてくだされば、お貸しします。

我らがOinsの皆さん、既にご存知とは思いますが、Dちゃんが深く関わった本です。私は今頃になって、読みました…。彼女からは、刺激をたくさん、戴いてます。ところで、後輩の菊川玲も難民支援をしてるよう。


(注1)難民の地位に関する1951年の条約 

第31条【避難国に不法にいる難民】
1   締約国は、その生命または自由が第1条の意味において脅威にさらされていた領域から直接来た難民であって許可なく当該締約国の領域に入国しまたは許可なく 当該締約国の領域内にいるものに対し、不法に入国しまたは不法にいることを理由として刑罰を科してはならない。ただし、当該難民が遅滞なく当局に出頭し、 かつ、不法に入国しまたは不法にいることの相当な理由を示すことを条件とする。

2  締約国は、1の規定に該当する難民の移動に対し、必要な制限以外の制限を課してはならず、また、この制限は、当該難民の当該締約国における滞在が合法的な ものとなるまでの間または当該難民が他の国への入国許可を得るまでの間に限って課することができる。締約国は、1の規定に該当する難民に対し、他の国への 入国許可を得るために妥当と認められる期間の猶予及びこのために必要なすべての便宜を与える。

第33条【追放及び送還の禁止】
1  締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない。


(注2)第81号(XLVIII) -1997- 国際的保護に関する一般的結論
i  【ノン・ルフールマンの原則】 の基本的重要性を認識する。同原則は、難民としての地位が正式に与えられているか否かに関わらず、人種、宗教、国籍、特 定の社会的集団の構成員であることもしくは政治的意見を理由にその人の生命および自由が脅かされる恐れがある領域の境界へいかなる方法によっても当該者を 追放しもしくは送還することを禁じ、または1984年の拷問等禁止条約に定める拷問を受ける恐れがあると信ずるに足る実質的な理由がある人をそのような危 険のある領域の境界線へいかなる方法であろうと追放もしくは送還することを禁ずるものである。

Sunday, January 29, 2006

54. Turning point - Starting the 3rd Semester

新学期が始まった。NYに来て1年。ちょうど半分の折り返し地点。これまでの1年があっという間だったのと同様、この1年も早いだろう。気を引き締めて頑 張ろう。必修授業で縛られた悪夢の先学期から解放され、ようやく関心のある授業をとれる!で、勢い余って19単位を登録してしまった。数週間以内にどの授 業を聴講もしくは、ドロップするか決める予定。

1. Economic Analysis II

MPA必修。前半ミクロ経済、後半マクロ経済。今回も、記事をもとにした経済分析のプレゼンがある。アフリカ経済のマクロ分析を一緒にやってくれる人を、Yと一緒に探すことにした。苦手の経済だが、今度こそは頑張るぞー。


2. Politics of Policy Making II

MPA 必修。今年度からカリキュラム再編で授業はなくなり、後期はCase Writing のみの1単位クラスとなった。Security Council Reform、G4案を巡る攻防について、日本人3人+アジア系オーストラリア人の4人で書く。最近の安保理傍聴や勉強会、授業で得たことを、活用できた らいい。


3. Security Council/Peacekeeping in Africa for the 21st Century

SIPAに来てよかった、と心から思った授業。教鞭を執るのは、「アナン事務総長の右腕」Lindenmayer教授、ブルキナファソ生まれの仏人女性。元国連Deputy Chief de Cabinet。 約1年前にあった、あの事務総長室人事シャッフルの煽りを受け、国連を退任。DPKOで長年勤めあげ、Oil for Food Program設立時交渉団の一員だったほか、ソマリア、ルワンダなど、90年代の主要オペレーションに参画。ある方によると、事務総長にあまりに近かっ たため、敵が多かったことから、人事刷新の際に対象になってしまったとか。情熱溢れる女性である。西アフリカに思い入れのある人々にとっては、当該地の平 和と安定は悲願であるが、彼女も正にそのうちの一人。先週は、これまでの功績が認められ、シラク仏大統領からの表彰を受けに、パリへと帰っていった。一 方、学生には、アフリカ大湖地域(コンゴ周辺)についての安保理公開協議の傍聴の手配を整えてくれた。再来週は、安保理改革について小澤大使を授業に招い てくださる予定。リーディングが山のようにあるが、日本人5名、協力しながら頑張ろー。


4. Conflict Assessment

Instructor's Permission Course のうちの一つ。紛争と開発の関係を、UNDPや世銀、USAIDなどのMethodologyを使って、分析する。最初は概念や各機関の分析手法を比較、 後半は学生各自、ケース国を選んで分析を発表、レポートをまとめる。


5. Challenges in Governance/Democratization

コロンビア大学PhD in Politics出身で、NDIの グルジアで民主化プログラムを実践してきたMitchel教授。中東と旧ソ諸国における米国の民主化外交政策について、早口でシニカルに回転よく話す。頭 がよすぎて、早すぎる。しかもゼミ形式なので、ディスカッションにはついていけるか不安。しかし、米民主化外交について批判的な旧ユーゴ、イスラエル出身 の学生が活発に反論を先生にぶつけていくので、聞いていて面白い。レジュメによれば、議会、憲法、司法制度、政府、市民社会、選挙、汚職、などについて、 話していく。アジア、アフリカの事例については経験がないぶん、生徒からの意見をwelcomeとのこと。面白く勉強になるが、ついていけるかは不安。


6. Topics in International Ethics

Michael Doyle教授。 かつてはプリンストン大で教鞭を執り、アナン事務総長アドバイザーも勤め、現在はコロンビア大SIPAとLaw Schoolに在籍。我が校の誇るリベラリストの巨頭である。秋学期にあるPeacemaking/peacekeeping の授業が評判が高い。この授業もInstructor's Permission Courseで、うまく受講を許可されたのはよかったが、リーディングをこなせるか不安。Realism, Liberalism, Marxismについて概観した後、人権、戦争・虐殺、テロ、国際介入、マルチ外交、平和構築、分配格差(貧富)などについて、各回、論考を深める。


7. International Human Rights

名物教授?、Peter Danchinによる、Human Rights専攻の必修授業。legal instrumentsやinstitutionよりも、概念についての講義が多いとのこと。最大の難関は、模擬裁判。元国連人権高等弁務官で現在コロンビア大学教授のMary Robinsonの前で、弁論をはらなければいけない。頭が痛い。


この上、二日間のshort course、International Humanitarian Lawもとりたかった。全部は無理なので、この数週間で、どの授業を落とすか、絞込みます。どれも難しい…。

先週は履修登録の一方で、先に書いたコンゴ周辺アフリカ大湖地域に関する安保理公開協議のほか、月曜日には東ティモールに関する安保理公開協議を傍聴してきた。このことについては、またいつか。

Monday, January 16, 2006

53. New York, NY


From "Top of the Rock"


From "Top of the Rock"


Ground Zero


Times Square


From Battery Park


Sunday Branch "East Meets West" @ Blue Note


"Die Fledermous (The Bat)" @ The Metropolitan Opera

Neighbourhood


先日、とある友人に言われた。「father complexでしょ? 私も。だから、私たち彼氏ができないのよ。」…う。返す言葉もない。母にさえ、いわれたことがある。「あなた、お父さんの相手ばかりしてあげてたら、お嫁に行けなくなるわよ。」 縁起でもない。

ちょっと古いが、壇ふみと阿川佐和子の名エッセイが、あまりにおもしろいので、一時期はまったことがあった。「ああ言えば、こう食う」「まだ、ふみもみず」「いつもひとりで」…、 止まらない。二人とも、壇一雄、阿川弘之という作家の父をもち、同年代で、独身。ユーモアと品と教養で、家族のこと、日常のこと、仕事のことを、綴ってい る。読んだことのある方も多いと思うが、私たち30代の女性だけでなく、男性諸氏にもお勧めできる。特に、娘から見た父の記述くんだりがおもしろい。こん な父娘の関係になれたら…、とよく思った。

作家と女優の父娘に、我が親子を比べたら天罰が下りそうだが、我が父は、ごく普通の、高度成長 期を支えた、典型的な日本のサラリーマンだった。昭和一桁生まれで、神奈川県藤沢で生まれ育ち、海が好きで、横須賀の米軍基地から流れてくる音楽を聴い て、独学で覚えたピアノを弾く。料理をするのが好きで、よく作ってくれる。週末に父の手料理を食べるのが、私と兄の幼い頃の楽しみだった。私が大学一年生 のときに定年退職し、その後は本格的に農業をはじめた。母の実家がたまたま農家だったため、まとまった土地を無料で借りることができたのが、幸運だった。 年に二十種類ほどの野菜を作り、土を愛す。父が畑を始めてからは、母は野菜を買わないで済んでいる。夢だった手押し耕運機を買って、「これ、僕のロールス ロイス」なんて言っている。

私が、大学時代や社会人になってから、悩んでいることがあるときには、決まって父は畑を手伝わせた。せっかく の週末、いろいろやることがあるのにな…と思いながら、私も、しぶしぶ手伝いをはじめるが、不思議と、土をいじっているうちに、気持ちが晴れてくる。日が 暮れ始めると、採れたての野菜を近所に少し配り、残った野菜で父と夕飯を作る。父の料理は、相変わらず、美味しい。母は、家で子供を教えているため、仕事 があるので、我が家はジェンダーが逆である。

私が小学生の頃や、中高の頃は、こんなことは考えられなかった。銀行員だった父は転勤や単身 赴任も多く、日曜日でさえ接待ゴルフにでかけ、ほとんど家にいなかった。夏休みにも、なかなか家族旅行にさえ行けなかった。定年退職後、土をいじり始めて から、穏やかになった父を見て、人は変わるものだ、とつくづく思った。

母と再婚の父に、私以外にもう一人娘がいる、ということを初めて父 から聞いたのは、私が東ティモール・イギリスから帰ってきた、なんと一昨年前だった。再婚であるのはよく知っていたが、長年会いたくても会えない娘がい る、というのは知らなかった。母も兄も親戚も、誰も私に話さなかったとはいえ、私も自分の鈍感さにほとほと呆れた。何故、父が私に必要以上の愛情を傾ける のかも、やっと理解した。

そんな父も今年、73歳を迎える。昨年末、貝にあたり、倒れて額を打った。なんとか体調を回復させて、年始に NYまで会いに来てくれたが、額の傷が痛々しい。最近は右足が痛いと、杖をつきはじめ、休み休みのNY観光だった。今年60歳になる母の方は、子供たちが 待っている教室を休みにできないといって、今回は一緒にNYへは来られなかった。休みにしたほうが、子供たちは嬉しいのでは…、と思うが、やはりそうでも ないらしい。

我が母は、幼いころに親を両方とも病気で亡くしているので、できるときに親孝行をしておきなさい、と強く勧める。「あなた、 今頃になっても、まだ学生やってるし、しかもその後、アフリカで働きたいなんていってるんじゃ、孫は当分先ね…。でもいいのよ。あなたは、あなたの人生を 歩みなさい。」 もはや、返す言葉は何も出てこない。

ここ数日で、御めでたいニュースを友人たちから、あちこち戴いた。
新年早々、景気がいい。

心より、おめでとう、おめでとう!

Friday, January 13, 2006

52. Media in Peacebuilding, Timor-Leste

最近、東ティモール時代の元同僚から、ブログや個人サイトを送ってもらったので、2つ紹介。

ハカンの写真サイト

ハカンは、元UNMISET/UNPOLの Public Information Officer(国連東ティモール支援ミッション・国連警察・広報官)。私が前半、国連駐在代表室(Resident Coordinator Unit)で、国連諸機関の Media Officer として働いていたときの、UNMISET側のカウンターパートでした。トルコ警察部隊から来た広報官。趣味や人としての、幅の広さと奥の深さを感じさせる人でした。特に親しかったわけではなく、仕事上で何回か合ったり、イベントやパーティーで顔を合わせた、知り合い程度だったのですが、未だにときどき当時の広報官仲間にメールをくれます。上記サイトでは、東ティモールの美しさを、絶妙に撮った写真が集められています。必見。


カルラのブログ

カルラは、私が後半に、UNDP東ティモール事務所の Capacity Development Unit で、働いていたときのポルトガル人同僚。"Support to Capacity Development of Government of East Timor" (通称"200 posts project"、現在はPhaze IIで、Institutional Capacity Development Support Program)というプロジェクトで、一緒にProject Officerとして働いていました。ユーモアに溢れ、よく一緒に泣いて笑いながら働きました。東ティモールでの仕事を終えた後は、東ティの孤児を養子にとって、ポルトガルで育てていましたが、どうやらまた東ティに戻るよう。ブログはポルトガル語ですが、今後は英語でも書いてくれるとのこと。左下の写真欄で、子育ての様子を綴っています。今度は、子供関係のNGOで働くそうで、また東ティモールからの様子を教えてくれるのを、楽しみにしているところです。



先日は、N時代の仕事について触れたので、今度は東ティモールの国連駐在代表室広報官時代の仕事について少し。

東ティモール前半、私が働いていた国連駐在代表室(Resident Coordinator Unit)というところは、国連諸機関で構成されるカウントリー・チームを率いる国連駐在代表システム(RC System)を、サポートするところです。私が居た頃は、駐在代表の下、室長と広報官の二人しかいない、小さなUnitでした。駐在代表は、通常、その国のUNDP代表が兼任し、UNDPUNICEFUNHCRWHOWFPなどの国連諸機関(時に世銀なども含む)をコーディネートをする、地味ですが重要な役割を担います。CCA(Common Country Assessment)やUNDAF(UN Development Assitance Framework)、MDG Report(Millenium Development Goals Report)といった、国連機関共通の国別アセスメント、開発計画、レポートを、途上国政府の国家開発計画(NDP:National Development Plan)、世銀の貧困削減ストラテジー・ペーパー(PRSP:Poverty Reduction Strategy Paper)とすり合わせて、策定していきます。こうしたUN RC systemは各国で形成され、その様子はUNDG(UN Development Group)のウェブサイトに詳しく載せています。

中でも、東ティモールをはじめ、アフガニスタンやリベリアなど、国連平和維持活動が行われている国では、国連駐在代表が、PKO (Peacekeeping Operations) Missionとのコーディネーションも行います。その国の紛争を恒常化させない要因のひとつとして、平和維持活動と人道、開発・発展への道筋を、途切れなく滞りなく、スムーズに計画・実施することの重要性が、認識されているからです。「紛争後の平和構築」と呼ばれるこうした時期では、国連システムの統合は不可欠で、通称「ブラヒミ・リポート」と呼ばれている国連PKOパネルが発行したレポートでは、その重要性が強く指摘されました。レポートでは、駐在代表(RC)が、UNDPの代表(RR)だけでなく、PKOミッションの副代表(DSRSG)も務め、国連平和維持活動と国連人道・開発計画のコーディネーション全体を指揮するよう明記されています。(ちなみに、日本人パネリストの志村尚子氏は、私の母校の大学長で、もともとはDPKOに長年勤めていました。)

しかし、こうしたUN Coordination の仕事は、"Catching butteflies"と皮肉られほどで、実際は、それぞれ異なるmandateとfunding, administraionのもと、ばらばらに活動する国連諸機関をまとめるのは、至難の業です。東ティモールでは、2002年の独立と同時に、UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)OCHA(国連人道関係調整事務所)がなくなり、代わりに独立後に引き継いだUNMISET(国連東ティモール支援団)に、このRC/RR/DSRSG Systemが初めて導入され、その調整の役割を果たすことになったのです。私は、ちょうどその移行の時期の2002年5月に、赴任しました。

私の仕事は主に、2002年5月の国家独立と9月の国連加盟をカバーしにくる各国ジャーナリストのリエゾン、独立式典に合わせた"UN Works"写真展と、10月UN Dayの国連加盟記念イベントのアレンジのほか、国連駐在代表室のウェブ・サイトの設営(昔のです。もうなくなったと思っていたらまだ残ってました。本を見ながら必至で初めて作ったサイトですので、どうかご容赦を! 現在のページはこちらです。)毎週開かれる国連諸機関の代表を集めたカウントリー・チーム・ミーティング(Heads of UN Agencies Meeting)の補佐、そして在東ティモール・国連システムの様々な広報官を集めて行うInformation Committeeのコーディネーション、…などなど、でした。

私のメインの仕事だったUN Information Committeeでは、UNDP、UNICEF、UNHCR、WHOや世銀など、各機関のそれぞれの広報官、それから国連平和維持部隊であるUNMISETのSpokesperson Officeと広報部(TV、Radio、Publication)のほか、各国平和維持部隊(日本の自衛隊や各部隊の広報官)、国連警察(UNPOL)の広報官(ハカンら)を召集し、月に1~2回会議を開いていました。基本的には、各機関の近況・情報交換のほか、それぞれ、ばらばらに動いている国連機関を、"Harmonized UN system," "The One UN" として東ティモール国民に演出するには、どうしたらいいか、次はどこが何のプレス・リリースを出すか、などの話し合いをしていました。が、実際は、途中、UNMISET報道官と広報部長のポストがなかなか埋まらず、待てど暮らせど着任しないため、皆かなりばらばらに行動していた他、地元メディアからいろいろつっつかれたりして、右も左もよくわかってなかった私は、かなり苦労しました。

一方、当時の地元メディアの背景は、独立前に、住民選挙、憲法制定委員会選挙、大統領選挙などで重要な役割を果たした、国連テレビ(TV UNTAET)と国連ラジオ(Radio UNTAET)が、それぞれ、TVTL(東ティモール・テレビ)Radio TL(東ティモール・ラジオ)へと、引継いで独立したばかりでした。しかも、独立後の国連広報部と、TVTL、Radio TLの間には、人材や機材引渡しの面で、確執が残っていました。東ティモールではもともと、新聞とラジオ以外に独自メディアがなかったので、公正な地元メディア、特に首都のテレビと村のコミュニティ・ラジオをどのように育てていくべきかは、たびたび議論にあがりました。

特に印象に残っているのは、12月4日の暴動後、緊急に開いたInformation Committee Meetingです。2002年5月の国家独立から約半年後の12月4日、高い失業率に喘ぐ首都ディリで、学生デモが暴動に発展しました。初めは小規模だった学生デモに対し、まだ生まれて間もない新東ティ警察が発砲。二人の学生が死亡し、デモは暴動に発展。首相の家とモスク(東ティは国民の95%がカソリックだが、首相はモスリム)が焼かれたほか、外国人が利用するスーパー・マーケットやホテルが焼き払われました。(暴動の詳細については、F大使(当時)の報告から様子が伺えます。

その直後に開かれたInformation Committee 緊急会議では、様々なことが話し合われました。東ティモール国民は、長年の夢だった国家独立を叶えた後、経済基盤と人材のない現実を目の当たりにし、目標を見失って自暴自棄に走っている、国民に希望を見せること、持たせることが、国連メディアの役割として重要である、という話になり、そのためには、

1.月に2回ほどのペースで、地元メディアにコンスタントに情報源を与え、国の課題が、安全保障や難民、選挙、独立から、教育・医療・経済などの開発・発展へと、移行したことを認識してもらう。(プレス・コンフェレンスの定期開催。MDGの広報キャンペーンの強化。)

2.ローカル新聞やテレビが、世論を率い、オピニオン・リーダーとなり、新政府の監視役となる役割を果たすため、公正で正確な報道を行うプロフェッショナルなジャーナリズムの技術を身につける。特に、人材育成と財政マネジメントのアドバイザリング。 (国連アドバイザーやNGO Internewsを通した、ジャーナリスト・トレーニングや人材育成への働きかけ。メディア法の制定。)

3.警察官のイメージの刷新。東ティモール国民にとって、「警察」といえば、インドネシア統治下時代、独立運動を暴力で潰されたトラウマ、汚職にみちたポリシア(インドネシア憲兵)の、「権力と圧制」のイメージがある。国民だけでなく、新東ティ警察官自らも、そのイメージを払拭し、「市民を守る」警察のイメージを養う。(UNMISET広報部とUNPOL広報が中心になった、東ティ警察のメディア・キャンペーン。)

4.独立後、数ヶ月間ポストが埋まっていなかった、UNMISET Spokespersonと広報部長の即時着任要求。(これが、穴あきポストが多く機動力が遅い、と言われるUNの現実。)

…などなどが決まり、それぞれ、すぐに実施しました。

少なからぬUNMISET広報部、Internewsのメンバーは、もともとジャーナリストだった人も多く、BBCやCNNで働いていた人、カンボジアやボスニアの選挙を渡り歩いてきた人、東南アジアの島々を描くドキュメンタリーを撮っている間に東ティにたどりついた人、など、個性的なメンバーばかりで、私は大好きでした。彼らは、住民投票後の99年の騒乱で、報道や映像を見て、動かされてきた人が多く、また、ジャーナリズムの力を信じている人たちでもありました。東ティモールでは、91年のサンタ・クルース虐殺事件のインドネシア軍による残虐な行為を写した映像が、75年のインドネシア併合以降、国際社会から忘れ去られていた東ティモールの惨状と存在を世界に知らしめた、という経緯があります。以来、ジャーナリズムはこの国の独立に、一定の役割を果たして来ました。まだ若かった私にとって、またメディアから移ってきたばかりだった私にとって、他の国連職員が、時に組織の論理だけで行動する国際官僚に見える中、彼らはより地元の人々の声を聴き反映させる努力を惜しまず、かっこよく見えました。(若かったので、見えただけだったのかもしれず、本当のことはわかりません。)

トルコ人警察広報官だったハカンは、当時のメンバーの一員でした。モメンタムを共にくぐり抜けた時の仲間として、細く長く、これからも繋がっていくんだろうな、と思います。大変だったこと、印象深かったこと、近かった仲間ばかり覚えていて、忘れかけてきている多くの、小さな出来事や、楽しかった些細な想い出、知り合いなど、国連東ティモールで働いたことの何よりの財産を、最近しみじみ感じ、つい今日は長々と書いてしまいました。

Tuesday, January 3, 2006

51. Happy New Year 2006 !

新年明けましておめでとうございます。

2006年、SIPAでの留学生活も二年目に入り、最後の年。今年の抱負は言うまでもない。卒業と就職。一年後の元旦には、私はもう職を得て、この部屋を出ていなくてはいけない。覚悟を決めて、臨みます。語学力習得、その他に励みます。どうか今年もご指導いただけますよう、宜しくお願いいたします。

このブログも、留学出発直前のちょうど一年前、去年の元旦明け二日、楽しい留学生活を報告できるようにと、抱負を込めて開いた。お陰様で、昨年一年は、目標だった留学を果たし、人生で一番、平穏に過ごせ、幸せだった。生き急ぐのではなく、生きることの歓びを味わいながら、夢と希望をもって願い、目標をもって努力を続けることの大切さも学んだ。

平穏も無事も幸せも平和も fragile で、与えられるものではなく、築きあげるもののよう。どうか今年も、これからの10年も、私の愛する人々が平和で無事で、幸せであれますように。祝福に包まれますように。

2006年 元旦

Monday, January 2, 2006

50. End of 2005 & Beginning of 2006


@ Rockefeller Center


Skate Link @ Rockefeller


Lincoln Center (pic from A-chan)


Nutcracker @ Lincoln Center (pic from A-chan)


Columbus Circle (pic from A-chan)


@ St. Johns the Divine Cathedral 鶴や孔雀の折り紙の飾り。


Peace Concert


ソプラノ歌手による歌のほか、第九を演奏


Chef Aの巧みな盛り付け


うちのお雑煮


この上、ぜんざいも食べる。食べ過ぎた…。残りは明朝に。演出家Aにより、クリスマス・ツリーの小枝も、あっというまに松の枝に変身。上のお獅子は、Chef A' からのお年賀。

年末年始

クリスマス後、第二の帰省・脱出ラッシュが相次ぐ。私は、昨夏に一時帰国をしたし、年始には父がNYを訪れるので、今年の年末年始はNYで過ごし、観劇に徹した。NYに来て1年というのに、観たものは先日かいたブロードウェイの1つのみ。これまでは勉強が大変で余裕がなかったせいもあるが、せっかく学生割引があるというのに、これではもったいない。なんとか正常に、先学期 -苦痛以外の何ものでもなかったが、大変有難い勉強の機会に感謝はしている- を乗り越えたので、祝いがてら楽しんだ。

まずは、ずっと観に行ってみたかった、クリスマスの風物詩『くるみ割人形』。一緒に観に行くAちゃんとK君によると、この Choreograper George Balanchine による New York City Ballet の『Nutcracker』は、特にいいらしいとのこと。「この一年、お疲れ~」と、自分への褒美に、奮発して一階席をとった。席をネットで確認していなかったので、当日に行ってみてびっくり、なんと一番前の席。もちろんベストではないのだろうが、オーケストラの演奏の様子、踊り子たちの表情や息遣いを観ることができる、とAちゃん。偶然、国連フォーラムでお会いしたECOSOC日本人職員の方にも、一番前の席でお会いした。観客は、家族連れが多い。私たちの後ろも、アフリカンの子供連れがわいわいやっている。公演が始まり、踊り子の子供たちがたくさん出てきた。彼女たちの笑顔の輝きといったら、もうたまらない。晴れの舞台に立つ歓びが体中から溢れ出ている。ブロンドに青い目の踊り子が多い中、主役を演じる女の子はラティーノだったのか、一人だけ黒髪の黒い瞳。華があり、オーラに包まれていた。チャイコフスキーを振る指揮者は、女性。女性の指揮者を見るのも、私は初めてだった。今回の観賞の感激は言葉に尽くせない。夢は、持つもんだ。

翌日は、N・NY総局に呼ばれた。私の後任の後任、NさんがNYを訪れるので、NYを案内してあげてほしいとのこと。学期中は忙しくて総局に遊びに顔を出せなかったので、元上司はちょっとご不満の様子。でも訪ねに行くと、なんとかご機嫌を直してくださった。ほ。以前、私にも総局を案内してくださったのと同様、今回もNさんのために中を案内。海外中継用のスタジオ、クロマキー、9・11のときにも活躍した天カメ、映像回線室と伝送経路について、一緒に説明を受ける。現役ADのNさんは感動している模様。私も、東京での仕事を辞め東ティモールにいた頃、休暇中に、初めてジャカルタ支局の中を案内してもらったときの感動は忘れられない。東京報道局のニュースセンター(NC)で毎日受け手にいるだけでは、なかなか送り手の海外支局のことは想像がつかない。現役のときに、こうして外の支局を紹介してもらえるというのは、羨ましい。

その後、ランチにブラジル料理に連れて行ってもらう。N7、N10、国際班の、今の様子を伺う。1月からは、N10ではなく、N9に戻るとのこと。昔のメンバーも元気そうで何より。元上司と別れてからは、Nさんとロックフェラー周辺へ。その後は、仕事の四方山話に華が咲いた。

国際放送局、報道局国際部、テレビ・ニュース部国際班、国際回線室やBSの番組部などでは、外大や上智、ICU出身の、語学堪能系の若いスタッフが、契約で多く働いている。そんな中、二人しかいない、N7/N10・国際班・アシスタント・ディレクター(AD)の仕事は、体力勝負できつい。報道の心臓部と言われるNC(ニュース・センター)で仕事し、ある意味、国際報道の最前線にどっぷり漬かれておもしろいが、実質は体育会系ともいえる。9・11のときなどは、数週間後も特別体制が敷かれ、緊張が続いた。職員は交代で休みに入るが、アシスタント・ディレクターには休みがない。このままいったら倒れるな~と思っていたら、運よく急性盲腸炎にかかり、二週間の休みをもらえた(痛かった)。代わりに、他に休みはなかった。ま、普通なのかな。その代わり、何故だかわからないが、NDには本当にかわいがってもらえる。未だにこうしてお世話になっている。義理人情に厚いあたりも、体育会系的であるといえるかもしれない。

余談になるが、国際報道映像制作の裏側というのは、同業者でさえ想像のつきにくい仕事のようなので、この機会に簡単に説明を。国際班ADのボス、国際班/ニュース・ディレクター(ND)は、国際部/デスクや特派員記者が出稿する原稿に合わせて、映像をつなぎ、スーパー(テロップ)原稿を作り、中継のコーディネーションをして、キューを出し、映像送出卓を叩いて、放送を出す。アシスタント・ディレクター(AD)は、彼らのアシスタントとして、あらゆる映像(ロイターAPEVNAsiavision Al Jazeela, の配信映像から、独自映像まで)に目を通し、映像キャプションと著作権利情報を確認し、通訳と編集マンと編集作業をする。コーディネーター、国際回線室、海外映像室、音声室、を往復して、海外支局からの伝送映像や音声がきちんと届いているか確認し、録画してもらう。その日のレポートや情勢に合わせて、ダリ語、パシュトゥン語、アラビア語、朝鮮語、ウルドゥー語、英語などの通訳を手配し、アフガン人やイラク人のインタビュー、ブッシュやラムズフェルド(米国防長官)の記者会見を訳して、翻訳スーパーを入れる。映像に映る顔や場所、軍機などを見て、正確な名前や肩書きを言えるよう、国際政治の主人公と脇役、舞台、戦闘機や軍艦、ミサイルの名前を覚えていく。リアルタイムで国際情勢が更新されていく中、誤ったキャプションや放送事故を出さないよう、細心の注意で事実関係を追い、作業手順を確認する。一方で、資料映像を使って絵で語らせる場合、NDから「ユーゴ空爆、ミロシェビッチの直近」と言われれば、ビル中にあちこちに散らばっている膨大な映像倉庫とデータベースから、いくつもの映像を引っ張り出し、見て、編集マンといいカットを掘り当て、切り貼りする。国際ニュースを長年こまめによく見て覚えているのが、いいニュース映像制作の仕事に繋がる。みんなが何気なく見ている国際ニュースの、ワンカット、ワンカットは、これだけの人々が関わり、時には何時間もかけて選び出したベスト・カットの塊なのである。(…と、この機会に、ちょっと言ってみたかった。)上記はまだごく一部で、それ以外にも細かく複雑な過程を、編集マンや、通訳、ND、コーディネーター、回線室、音声室と、クリアしていく。しかもそれぞれは技術屋であって、国際情勢を理解している人は少ない。国際政治を理解している人にいたっては、一部の通訳とNDだけだ。共同作業ではあるが、これらすべてをAD二人でやるのだから、結構疲れる。

しかも、NCには、女性がほとんどいない。常時、百数十人がひしめく大フロアなのに、1割もいない。人使いは荒い人とも、適当に上手にかわしながら働くので、苦労は絶えない。今はどうかわからないが当時は、NCは禁煙エリアなのに、NDも記者も喫煙したままなので、窓のないNCの空気はいつも白く濁っていた。また、モニターする国際映像というのも、その多くは、世界中で起きたテロや事件・事故の映像で、爆発で引きちぎられた肉塊や、潰れた顔、死体の山、最近ではアル・カイダが捕虜の首をのこぎりで切り落とすシーンなど、である。慣れるまでは、食事も喉を通らない。生きている人間の映像と言えば、ブッシュにキム・ジョンイルに江沢民(当時)…。会見編集作業などで、彼らの顔ばかり何時間も眺めていれば、これも食傷気味になる。私が入ってすぐの頃は、小泉氏の靖国訪問に抗議をする韓国右翼数十人が、日本大使館前で号令と共に小指を切り落とし、韓国国旗に詰めた小指の小山を盛って包んで送りつける、という事細かな映像を、何度も何度もロイターやAPが送ってくるので、参った。…いろいろ大変だとは思うけど、負けないで頑張るんだよ、とNさんを励まして、翌日、国連ツアーに連れて行く約束をして別れる。以上、閑話休題。

その日の夜は、同級生たち6人で『SAYURI』を観に行く。前評判が悪かったからか、私はいい印象を得る。特に主役のチャン・ツィイーとコン・リーがよかった。何で主演の芸者はやはり日本人がよかった、と諸君がいうのか、よくわからない。あの二人に勝り、世界に通用する、いい女優が、日本にいるとしたら、一体、誰なのだろう。私は『初恋のきた道』も『紅いコーリャン』も大好きだったので、二人の印象がいいのかもしれない。こんな素晴らしい日中友好の映画を作ってくれた米映画人に感謝すべきだ。と、私流解釈。

次の日は、Nさんを国連ツアーへ連れて行くが、これが年末で恐ろしい混みよう。長蛇の列を一時間近く並び、やっとツアーに参加。私にとっては二度目のツアーだったし、国連総会のときにいろいろ歩いたので、まあ特に。別れ際、Nさんに報道局の皆さんへ、とUNチョコのおみやげを託す。激動の国際情勢を映像で追うのは、大変だけど、とても貴く大切な仕事。頑張ってください。どんな国際ニュースに触れるたびにも、いつもNC国際班のことを思っていますよ~。

翌々日の大晦日前日、30日は、夢にまで見た、念願のBlue Note, New Yorkに、初めていく。Chef C に誘われ、同じくJPOのTさん夫妻お勧めの年末ライブだったので、迷わなかった。しかも、Blue Note NY は、日本の約半額の値段! 学生の頃、よっぽどBlue Note Tokyo でバイトをしようかと思ったくらいだが、人生を踏み誤りそうだったのでやめておいた。なので、想いは格別だった。95年にグラミー賞ベスト・ボーカルを授賞した、女性ジャズ・シンガー、Cassandra Wilson。私は知らなかったが、Chef C とTさんの二人は、セントラル・パークでのサマー・ステージで、彼女のライブを見たとのこと。ライブが始まると、彼女の低い声と、メローなリズムに、私は固まってしまった。Jazzy, Vosa Nova, and West African な音楽に、心が揺さぶられ、涙が止まらなかった。自分でも驚いた。特に、バック・バンドのハーモニカとドラムが素晴らしかった。最後、アンコールの曲は、Bob Marley の『Redemption Song』。想い出深い曲だったので、これにもノック・アウトされる。これまで、いろいろな音楽を多く聴いてきたけれど、でも、本物に触れる瞬間というのは、こういうことのなのでしょうか…。

31日の大晦日。午後4時頃から、Chef A と Chef A'とお正月準備を始める。とりあえず、ジャスマートへ買出しへ。6時半からは、ルームメイトも誘って、すぐお隣の教会へ。以前からK夫妻のお誘いを受けて、約束していた、 New Year's Eve Concert for Peace へ。無料。入ってすぐに、鶴と孔雀の折り紙が散りばめられた巨大なクリスマス・ツリーが待ち構えていた。司祭は、カトリーナや津波、地震などの災害被害者への祈りを捧げる。ソプラノ歌手による歌のほか、最後には第九も聞け、ああそいうえば、大晦日か…と思い出す。Y夫妻も来ていた。年越しの挨拶をして別れ、我々はアパートへ戻って作業再開。年が明ける前に、ご近所様のK夫妻と、おせちとお雑煮をお裾分けしあう。K夫人の、手作りおせちの美味しさに、舌鼓を打つ。やはり夫人は違う、と我々ジャス・マートおせち組は、恥じ入るばかり…。でも、ま、始めたのも遅かったし、お雑煮も悪くなかったし、年越しそばもおぜんざいも食べられたし、まいっか。明けましておめでとう。今年もどうぞよろしくね。三人で、今年の抱負を誓い合う。

その後は、UNツアーの際に仕入れた『En Route to Baghdad』というSergio de Melloの生涯を描いたドキュメンタリーを三人で観賞。セルジオ・デメロは、UNTAET・東ティモール暫定統治機構の事務総長特別代表(SRSG)を務め、東ティモールにとっては、1999年の住民投票後の混乱から、2002年独立までを導いた、産みの親でもある。私も独立直前に東ティへ赴任したので、ぎりぎり彼の時代をかいま見た。

当時、2002年5月20日の東ティ独立式典の翌日、コフィ・アナン事務総長夫妻を初め、ルベレス元難民高等弁務官、アルカティリ首相、ラモス・ホルタ外相などが、UN Houseを訪れるのと同時に、セルジオもPKO庁舎から少し離れた国連機関事務所に顔を見せた。少し前までニュースを作っていた私にとっては、何度も編集したセルジオを、生で(実物で)見るのは、なかなか感慨深かった。我々メディア・オフィサーらが夜を徹して作業した写真展を、SG(事務総長)が観賞する後ろで、ネクタイを外して汗だらけのセルジオが走り回り、スタッフにあちこち指示を出していた姿が印象的だった。彼が任務を終え東ティを去った後も、エピソードや名声は残り、存在感や影響力の大きさをいつも感じさせた。

類希なリーダーシップ、各フィールドで実績を残す実力、共に米国が唯一認める、生え抜きの国連高官。それが、命を落とす遠因だったとも言える。イラク・ミッションのSRSGに再び任命され、数ヶ月もたたないうちに、テロで殺された。「米国がセルジオを殺した」 IAEAの調査結果を無視し、大量破壊兵器開発疑惑をでっちあげ、安保理決議を曲解し、国際法違反を犯して、武力行使に踏み切り、セルジオを道連れにした。スタッフ内で感情論がうずめく中、右腕を亡くしたコフィ・アナンは、米国との確執を深めた。任期最後の今年2006年を、どう修めるのだろう。

Aちゃんは明日からタンザニアへJASIDNY支部の研修旅行。いってらっしゃ~い。Nさんはモロッコへ。K君はジャマイカへ。Yはバハマへ。みんな、いいなあ。元旦夜は、私はルームメイトとAと三人で、Alvin Ailey の最終公演へ。African American Ballet Company で、毎年この時期に定例公演を行っているよう。 副ディレクターは、日本人が務めているとのこと。随分前から友人に勧められていたが、試験などでなかなか行けず、最終公演になってしまった。25ドルの天井桟敷の席だったが、これまた凄かった。最近は、どうしてこう当たりが多いのだろう。4つの演目とも、鮮やかな衣装に、洗練されたバレエの動き、高い跳躍力、躍動感。アフリカの伝統音楽と踊りに、最新のモダン・バレエの技巧を織り交ぜ、ゴージャスに踊りきる姿に、満場総立ちで拍手喝采、最終公演の幕を閉じた。私にとっては、なんて素晴らしい元旦の夜、2006年の幕開け!

Monday, December 26, 2005

49. Merry Christmas!


Dの力作!その後ろにはNとKの逸品。


Bon appetit!


パエリアも、美味しい!!


Merry Christmas!! (Present from R-chan)


メリー・クリスマス!

長いトンネルを抜けると、雪国が…。 待ちに待ったクリスマス。

約3週間ほど続いた今回の最終試験期間中はよく、SIPA6階で明け方まで過ごした。特に、もうすぐ卒業する春入学のRちゃんとは、よくしゃべった…、いやいやよく勉強した。六階族の皆さん、お疲れ様でした。

試験中、ニンジンがないと馬車馬のようには走れない、という名目のもと、Rちゃんと懸案のクリスマス・イヴ作戦を練り始めた。我が家のルームメイトは、二人とも休暇で米国を離れ、アパートはからっぽになる。25年来のストライキ@NYにも負けず、同級生たちが帰省・越境ラッシュに揉まれる中、残されし私たちは考えました。うちのアパートで、オーソドックスにクリスマス・パーティーでもしようか…。家族も恋人もない我が友人共が、路頭を彷徨うのは見ていられない…。

『Singlers' Safety-netの会』と揶揄されながらも、試験勉強の合間を縫い、深夜の6階にて公正・厳選たる審査をRちゃんと始める。結果、選び抜いた(主にシングルの)シェフたちに、少しずつ声を掛けはじめる。試験後は、風邪っぴきのRちゃんにラタトゥイユを作りながら、今度はメニュー案を一緒に練る。途中、メイン・ディッシュを、ロースト・チキンにするか七面鳥にするかで、紛糾。終いには、チキ面鳥じゃなきゃクリスマスじゃない!と、口論にまでなりかけた結果、最後は私からロースト・ビーフの妥協案を提示し、友情は保たれる。さすが安全保障G仲間、両者ともに Conflict Prevention & Recovery を心得ている。

とりあえず、試験期間中に底をついた我が家の食糧棚を見て、買出しにでかけることにする。かぼちゃのクリーム・シチューをメニューに入れたかったけど、適当な大きさのかぼちゃがない。洋梨がおいしそうだから、サラダにしよう…。近所の道端で売り始めた、等身大のもみの木も、15ドル(+10ドルの支え)で仕入れる。よっこらよっこらアパートまで持ち帰ると、部屋はもみの木のいい香りに。貧乏学生にこれ以上の飾りは贅沢…と思っていたら、本番前夜、Rちゃんが国連のクリスマス・オーナメントをプレゼントしてくれた。感動。;; 妥協案出しておいてよかった…。(違うか。)そして彼女は全てのmissionを私に託し、8年来の彼と、彼の実家s@マサチューセッツへ、旅立っていった。

前夜10時。しばらく使ってなかったオーブンの掃除も済み、さあ、私はこれから仕込み開始。試験期間後半、よく一緒に過ごした六階族深夜組Aちゃんも、うちに来た。サングリアとロースト・ビーフを、二人で仕込みはじめる。お昼のおつまみ用にと、ビーフ・シチューも作る。お~、美味しい、さすが! 深夜3時半、準備完了!! お疲れ~、おやすみ~。

…しかし、Aちゃん帰宅後、いまいちワインが利いてなかったかなー…、なんて思いなおした私が悪かった。ちょっとワインを足して、アルコール分を飛ばそうと鍋を弱火に再びかけたまま、「一瞬だけ」とメールをチェック…。お、国連フォーラム、安全保障Gの来年度計画案ご意見締め切りは、今夜だったっけー…。

焦げる匂いに気づいたのは、30分後…、いや1時間後だった。後に残ったのは、変わり果てたビーフ・シチューの姿…。;; バリバリのお焦げをとっても、やはりにがみが残り、とても人に出せたものではない…。ふと冷蔵庫を見ると、ルームメイトが貼ったマグネット「Always make new mistakes」の文字…。ここまで焦がしたのは、確かに初めてだわ…。失意に枕を涙で濡らしながら、眠りにつく。幸先、悪い。どうして、こうなっちゃうの…。Aちゃん、ごめんね。

さて、一夜明け、気をとりなおして、メリー・クリスマス。午後2時くらいからシェフが、順々に到着しはじめる。私に至っては、明け方、お焦げと奮闘していて、掃除もメニューのプリントアウトも、まだできてない…。みんなのおつまみも、焦げはあるけど形がない…。しかし!ショックから立ち直りきれていない、私のオロオロっぷりに危機を感じた、シェフK,N,A,Dの対応は素早かった。メニュー最終版を決定し、レシピを複数プリントアウトして、足りない食材をリストアップ。買出し部隊と調理部隊とに別れ、私は一人お掃除部隊へ…。さすが、あれだけ厳選した甲斐があった…、選び抜いた私の優秀なシェフたち…。

そうこうしているうちにシェフCも到着し、お陰様でようやく順調に事が動き始める。買出し部隊も戻り、残りのメンバーも、ぼちぼち到着しはじめて、代わりのおつまみやザイヤのケーキ、ワインも揃いはじめる。テーブル・セッティングもばっちり。午後6時には、ほぼ完成~!みんなで、あーだこーだとわいわい言いながら、ワインを片手に、美味しいものが作れたら…、という私のささやかなクリスマスの願いは叶った…。神様、有難うございます。

クリスマス・メニュー(10人分) 【リンクは参考にしたレシピ】

洋梨とフェタ・チーズのサラダ

ロースト・ビーフ

パエリア
ラタトゥイユ
手巻き寿司

抹茶ケーキ

赤・白ワイン
コーヒー・紅茶


Dの力作、ロースト・ビーフは、いい焼き具合だったね~、料理は何事も(腹も)8分目でやめとくのが大事だね、と私は学んだよ。男の手料理パエリアは、本当においしかった、K君! Nさんのも! 洋梨のサラダと手巻き寿司も、美味しかった、抹茶ケーキも~…と挙げ始めたら、きりがないのでやめておく。シェフの皆さま、お疲れ様です…。食後は、DとCサンタとでガチンコ議論が繰り広げられ、これまたおもしろかった。とってもfestiveなクリスマスを皆さまと一緒に作れて、私は幸せでした。

一方で個人的には、NYでのこの1年で出会った・再会した、SIPA同級生と長年縁がある旧友3人とを招いての会だったので、計画中からとても特別に想い、感慨深かった。中高の同級生・弁D、大学時代の船の同期でN時代も一緒だったPDのA、東ティ山奥のアイナロで運命的に出会い、NYで運命の再会を果たした国連PKO局のC、加え最近ガーナにインターンへ行ったSIPA同級生Nさんやその他の皆さん…。あちこちを飛び回った我が半生を網羅するかのように、異なる時代の私をそれぞれ知っている、縁深い面子。たまたまNYで再会し、イヴに我が家へお招き。30歳になってやっと初めて、自分が一本に繋がった気がして、昨日は本当に嬉しく光栄だった。

20代の幕を閉じ、30代の幕を明けた今年、2005年がもうすぐ終わろうとしている。この10年は随分あちこち外へ飛び回ってしまったが、ガーナや東ティモール、東京、NYで、かけがいのない日々を送ったような気もする。これからの10年・30代は、できれば好きな仕事に就いて、こんなふうにおいしいワインを片手に料理を作って、楽しい仲間に囲まれ議論・談笑する、落ち着いて充実した日々を過ごせることができたら、幸せこの上ないんだけどな~。やれやれ、どこの国での話に、なることやら…。

ということで、遠くにいる皆様、お近くにいる皆様、なかなかご挨拶ができずにいる皆様、どうか、それぞれの土地でそれぞれの素晴らしい休暇を過ごされるよう、心よりお祈り申し上げます。

Best wishes,

Friday, December 9, 2005

48. Winter has come...

とうとうやってきました。今は明け方、窓の外は、今年初めての本格的な雪が、しんしんと降りつづいています。先日、この冬初めての雪が降って以来、今日は二度目かしら。真冬用のセーターとコートと手袋も、ようやく戸棚の奥から出してきました。NYの冬が、またやってきました。

今は朝6時。今日午後提出の学期末試験(take-home exam)が終わらず、徹夜明けです…。;; 今学期は、つらい。更にこの1~2週間は恐ろしかった。統計と経済の宿題を、おととい昨日と提出し、経済のグループ・プレゼンもやっと火曜日に終了。そして今は、明日提出の Politics of Policy Making(政策政治)の授業の課題、ドイツかアメリカの移民政策をケースにメモを書いている。週明け月曜日はPublic Managementの授業で、米 Department of Homeland Security の manegemant issues についてプレゼン。そして金曜日には経済の試験。そしてまた週明けて火曜日に統計の試験。苦しい…。本当にクリスマスなどやってくるのだろうか…。

おととい終わった経済のプレゼンのテーマは、日本のコメ農家への新補助金制度案についての経済分析。夏のサマーからお世話になっている優秀な官僚組メンバーK,R,Yとご一緒させていただいたおかげで、とてもとても勉強になりました。前日の夜は、読み上げ原稿もRちゃんに1時間ちかくかけて見てもらって、書き直し。よって、プレゼンスライドも直したりして朝の4時までかかった。プレゼン自体は、トリを収め、なかなか好評だったよう。きっと今学期一番の思い出。

一方、Public Management のクラスでは、7つあったケースのうち、3~4のケースを選んで、メモと呼ばれるアドバイザリー・メモを書いた。結果的に、たまたま私が選んだケースは、security 関係が多かった。かつてNYの治安が最悪だった頃ジュリアーニ前市長時代に行われたニューヨーク警察(NYPD)改革のケース、9/11で多くの犠牲者を出したニューヨーク消防署(FDNY)のstrategic planningについてのケース、炭素菌(Anthrax)で大きなCrisis Managementを迫られた郵政省のケース。それぞれ、Directorのアドバイザーになった気で、たどたどしいメモを書く。ちなみに私は選ばなかったが、他には、教育省、水道局、雇用などについて、人事や民営化についてなどのケースがあった。そして来週月曜日のグループ・プレゼンは、9/11後に作られ、カトリーナの対応で批判が集中しているHomeland Security省について。これが、ちっとも進んでいない。不安。

他方のPolitics of Policy Making のクラスでは、様々な政治アクターと利害関係をもとに、どのような政策を立案するか、いかに法案を通すか、どのように政策を施行するかについて、同様、ケースをもとにメモを書いてきた。Los Angelesにおける刑務所建設法案と住民反対運動のケース、京都議定書に署名をしない米政権における環境法案とビジネス界の反対のケース、USAIDの緊急食糧支援改革法案と米農家反対のケース、そして今回の移民政策法の施行。特に最後の移民政策については、もともと関心もあったが、ドイツのケースを読むにつけ、先進国と途上国の問題を繋げ、難民問題、国家間の経済格差、高齢化社会、グローバライゼーションという現代の課題を考える上で、改めて重要な問題と再認識させられた。急速な高齢化が進む日本も、他人事では済まない時期が来ている。

どちらの授業もそれぞれ、メモの出来は拙く悪かったが、ケース自体はおもしろかったし勉強にもなり、知識の幅も広がった。でも未知の領域を新しく勉強するというのは、なかなか苦しいことであります。これまで、途上国のFailed stateと呼ばれる国や紛争後の復興、crisis prevention & recovery、nation-building(国造り)を見てきた中、一方でDemocracyとGovernanceの「あるべき姿」について、国家や三権分立、行政、司法、立法、そして公共政策を学ぶ必要をひしひしと感じ、選んだMPAでした。が、「苦しい」の一言です。domesticネタが多く、motivationを高めるのに、一苦労。好きな国際関係を選べば、もっと楽しかったろうに…。でも、自分の中で決定的に欠けていた「視点」を学べる、というのは、苦しい分、有難い機会でもあります。

と思いなおし、言い聞かせ、え~、逃げていないで、そろそろ今日午後5時提出のメモに戻ります…。は~、終わりますように…。提出に走って転ばないよう、雪用の靴も出さなくては。歩いたら、きゅっきゅ、鳴るかしら。

Sunday, November 20, 2005

47. "Movin' out"

今日は、同級生となんと初のブロードウェイに行ってきました。11ヶ月もNYにいて、何故一度も行けなかったのかしら…。心の余裕かしら?

私が今回初めて見に行ったのは、"Movin' Out"。大好きなBilly Joelの音楽に合わせ、ダンサーたちがセリフなしで踊るというのを聞いて、ストーリーも知らずに見に行くことにしました。ちなみに同じくBilly Joel好きの同級生は、これで二回目の観賞とのこと。彼女が入れ込む理由も、舞台を見てわかりました。何といっても音楽も、踊りも、素晴らしい!

ストーリーの舞台は、1960年代のロング・アイランド。20代くらいの仲良しグループが恋愛模様を繰り広げながら青春時代を送っていると、ベトナム戦争の影が忍び寄ります。男性3人は徴兵され、内一人は戦死、二人は心に深い傷を負ってNYに還ります。過酷な戦地から生還をしたにもかかわらず、二人はうまく社会に溶け込めず、怒りやすくなり、焦燥しきります。暴力やドラッグに溺れていく青年、ガールフレンドと寄りを戻せない青年、フィアンセを戦争で失った女性。二人の青年は、ガールフレンドの懸命な愛情や、フィアンセを失った女性に夢の中で導かれたりしながら、それぞれに心の傷を癒し、立ち直っていきます。そして最後は、再び活気を取り戻していく姿が、力強く描かれています。

その間バックに流れるのは、"Movin' out"、"The Longest Time"、"Uptown Girl"、"Stranger"、"Scenes from Italian Restaurant" など、Billy Joel の数々の名曲たち。上段ステージでは、Billy Joelそっくりの声と素晴らしいピアノ演奏で弾き語るpiano manを中心にバンドが演奏し、下の舞台では、ダンサーたちがspectacleなdanceを繰り広げます。2003年のトニー賞受賞作だそうです。

会場に来ていた客層は、ベトナム戦争時代に青春時代を送ったと見られる50~60代の方々もいらっしゃり、涙を流す姿も多くありました。イラクでは先日、米戦死者が2000人に達したとのこと。今回の米軍駐留も長引けば、ベトナム化しかねないと、劇は暗に警鐘を鳴らしているようにも見えました。たまたま前日には国連フォーラムにて、PKO局で働く友人が、平和構築におけるDDR(Disarmament, Demobilization, and Reintegration: 元兵士などの武装解除、動員解除、社会への再統合)についての講義を行った直後でもあり、元兵士や彼らを支える女性たちの抱える心の傷について、改めて考えさせられました。

昨日の話では、平和構築の中のDDRにおける国連の役割として、Reintegrationの中で、大量の元兵士や女性・子供たちに、心理的サポート・ケアをするだけのcapacityの蓄積が、国連にはないのが今後の課題でもある、という話を伺ったばかり。DPKOがミッションを展開しているリベリアやシェラレオネでは、叫ぶことしか自分の感情を表すことができない元子供兵士や、心に深い傷を負った、大量の若い兵士や女性たちを、これから国の復興とともに、どうやって社会復帰させていくか、が深刻な課題の一つと話していました。

私自身も、ガーナ大留学時代に出会ったリベリア難民たちや、東ティモールで出会った大家の家族やローカル・スタッフたちを通して、幼い子供や女性たちが抱えているトラウマの深刻さを、かいま見てきたので、彼女の話はとてもリアルに聞こえました。今日は思いがけず、ブロードウェイで改めて、元兵士も戦闘から残る心の傷を癒さないことに社会復帰は難しく、それは米国でも変わらないのだと、知りました。

Movin' Out。NYでは、12月11日に最終公演を迎えてしまい、その後は日本も含めツアーにでるとのこと。NYにいらっしゃる皆様、お時間があれば、是非。日本にいる皆様、公演の詳細はわかりませんが、お楽しみに。私も、もう一回行きたいくらい…。なんと言っても、ピアノの演奏と歌が、たまらない。

Sunday, November 6, 2005

46. Autumn in NY






































Central Park


NY City Marathon

Thursday, October 20, 2005

44. Struggled with prob sets & memo...

新学期が始まって以来、4科目から毎週のように、槍のように降り続ける課題の数々…。息をつく間もない。噂に聞いてはいたが、これがMPA…。来週は、中間試験。それが終われば、学期末まではあっという間。書きたいことは日々たくさんある。授業で取り扱ったケース、NYPD(ニューヨーク市警察)改革や、Dを話し手に招いた日本の難民・移民政策についての勉強会、その直後にPoPの授業で話し合われた人口・移民政策についての議論、コフィ・アナン事務総長とマーク・マーロック・ブラウン(MMB)前UNDP総裁(現Chief of Staff of UN Secretariat)を招いた国連改革の討論会…。けれども、今はなかなか余裕がありません。どうぞ、悪しからず…!

Wednesday, October 19, 2005

43. Congratulations! @Columbia 続・支える友人たち





Celebrating with old-colleagues @ NY.

去る10月9日、コロンビア大学の教会で、中高時代の同級生Iちゃんが、式を挙げた。現在NYにいる同窓生は、彼女も含め4人。DとKrと私も出席し、三人でウェディング・ポエムを朗読。アメリカの式では、友人が結婚にちなんだおめでたい詩を朗読することがあるそうで、私たちも交代でよんだ。緊張してしまったので、ちゃんと読めたかどうか…。DとKrの旦那様方(と赤ちゃん)も揃い、とても御めでたい一日でした。心より、おめでとう、おめでとう。

そしてその日、Dからは、この夏に出版した本を、サイン入りで戴いた。彼女が弁護士として、在日外国人とともに歩んできた、果敢な軌跡が綴ってあります。必読です。Dとは、かつて、同じ時期にアフリカ大陸で1年を過ごした。エリトリア出張に行く知人にD宛のメモを託し、彼女が返事をしてくれた葉書が、数ヶ月をへてエリトリアからガーナに届いたときのことは、今でも忘れられない。今は、一緒に学外で国連フォーラムの活動をしている。陰ながら最も尊敬する友人。

Krは、今年1月、お隣の校舎、ロー・スクールに通いながら、女児を出産。私と同じSIPAに通う旦那様に支えながら、この9月からは米のローファームで働いている。ジョークを交え、たんたんとこなすその姿に、脱帽。先日も、赤ちゃんのお散歩につき合わさせてもらった。癒された~。

翌週には、中1以来5年間、同じクラスで席も前後しつづけたFも、NYに立ち寄ってくれた。三晩、明け方まで話し込んだ。彼女の背中を、ずっと見つめ続けてきたのに、どうしてもっと見習わなかったのだろう、と反省然り。

西には、YとKもいるし、留学を機に最近、昔の仲間と繋がって嬉しい。先生、私たち、今でも、こうして励ましあって、心で支えあって、やっていっていますよ~。