Thursday, May 25, 2006

69. Bon Voyage ♪

時々Greeのレビューで、紹介している音楽について、いつも書きたいことがいろいろあるので、ブログでも公開することにする。最初は、こちらから。卒業生の皆さまへ贈る音楽です。

「Jet Stream - Winter Flight」(オムニバス・橋本徹選曲 /ユニバーサルクラシック/2003年)
「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。」というオープニングで始まるTOKYO FMのラジオ長寿番組「Jet Stream」。JALがスポンサーで「旅」をテーマに、1967年以来、約40年もの間、ジャズやボサノバをBGMに放送してきた。番組から出されたレコードやCDは、100枚以上にのぼる。中でも季節外れのこの一枚、Winter Flightは、カフェ・アプレミディで有名な橋本徹の、至極の選曲。ほんとにお勧め。私は擦り切れるほど聞き、本当に擦り切れてしまったので、今は手元にCDがないのが残念。

「Jet Stream」-1967年以来約25年間、初代パーソナリティ(フライト・ナビゲーター)を務めた声優の城達也は95年に亡くなり、その後最近では伊武 雅刀などがナビゲーターを務めている。海外旅行が夢や憧れだった時代から約40年、単独スポンサーを続けてきたJALと、城のこの番組に対する思い入れは 強いらしく、海外へ思いを馳せる貴重な番組として長く続いてきた。様々なエピソードについては、Wikipediaが詳しい。

「午前零時。それは人が自分を振り返る時間。それは人々が自由に心の旅を繰り広げる時間。ロンドン、パリ、北京、ミラノ、ニューヨーク、パリ・・・人が何を想い、どんな恋をしているのでしょうか。

遠 い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。満点の星をいた だくはてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂(しじま)の、何と饒舌なことでしょうか。光と影の 境に消えていったはるかなる地平線も瞼に浮かんでまいります。

あなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム、皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは城達也。 ...」

声優・城達也の、あの低く響く、渋く美しい声が、今にも蘇るようである。毎回、このオープニングやエンディングと共に、音楽と各都市が紹介される。

旅 立たれる卒業生の皆様、改めて、ご卒業心よりおめでとうございます。人生は旅とも言いますから。次なる目的地は、お決まりですか。離陸準備は、順調に進ん でいますか。SIPAで国際関係・公共政策を学ぶ授業の中で、各国にトランジットしながら、卒業へと向かったこの2年間のフライトが、貴方の素敵な想い出 となりますように。次の飛行もまた、心地よい音楽に載せて、楽しいものとなりますように。現実の社会に戻り、またあの冷たい雨や嵐、乱気流に見舞われるこ ととなっても、責任やプレッシャー、家族や孤独という名の重い乗客を乗せていても、どうか物ともせず、いつも心に静けさと音楽を響かせ、目的地に向かって 安全な飛行を続けてください。一年半、とってもお世話になりました。有難うございます。それぞれに新しい旅先でのご活躍をお祈りしています。

Bon Voyage ♪



Tuesday, May 9, 2006

68. UN Security Council - "Fragile Peace, Timor-Leste on the Edge"








































5 月5日に東ティモールに関する国連安全保障理事会公開協議が開かれたので、傍聴してきました。当日は、先の3月に東ティモールを訪れた女優の藤原紀香さん が、国連本部内で写真展を開いていらっしゃいました。秋にももっと大きな写真展が開催されるようです。下記に、国連フォーラムに投稿した傍聴報告を転載し ます。(今回、5月5日の安保理協議の詳細についてはプレス・リリースを、UN News からも、短くまとまった記事が出ていますので、ご関心のある方は、そちらもご参照ください。また、先日の暴動については、BBCの記事と写真を参照ください。)(上記写真は、1月の安保理協議の際のもの。)

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今 回の安保理協議では、現行の国連ミッション・国連東ティモール事務所(UNOTIL)の期限が切れる5月20日を前に開かれました。しかし、先々週に突 如、首都ディリで起きた暴動を受けて、安保理協議も当初の予定とは異なる展開となりました。 事務総長報告が提出された4月20日の時点では、長谷川特別代表(SRSG)からUNOTIL mandates履行の最終報告と、新しく、規模を大幅にダウンサイズした "integrated UN Office" 設立の検討が、今回の安保理で為される予定でした。しかし5月5日当日は、先の暴動を受け、国連ミッションの exit strategy の再検討が協議されました。

今回注目されたのは、以下の3つのポイントです。
1)暴動の経緯(長谷川国連代表と、ラモス・ホルタ東ティ外相の報告)
2)今後の対応(主要ドナー、日・ポ・豪と、P5、米・仏・英などの発言)
3)Root causes(長谷川代表の返答)

代 表の報告によると、先々週の4月下旬に東ティモールの首都ディリで起きた暴動では、少なくとも5人が死亡、60人以上が投石や発砲で怪我をし、1万人以上 が首都中心街から山へ避難する事態となりました。暴動に至った直接の経緯については、3月中旬に軍を解雇された約600人の元兵士が、解雇理由の開示と独 立調査を求めて、4日間、平和的デモを実施したことが発端。しかしその後、状況に乗じた「元兵士以外の」若者や政治分子が、政府庁舎を攻撃しはじめ、暴力 に発展。東ティ警察は暴動を取り締まることができずに軍が出動し、今回の事態に至った、との報告がなされました。

このような暴動が東ティ モールで起きたのは4年ぶりで、2002年5月の国家独立から半年後に、デモに参加した学生2人が亡くなる騒ぎがあって以来になります。新国家・東ティ モールでは、独立後も、国連をはじめとする国際社会に、その生まれたてで脆弱な民主主義を支えられながら、順調に平和への道を歩んでいたところでした。独 立後は、UNOTILやUNMISET、国連諸機関や国際社会の支援を通じ、行政・司法分野における組織・制度構築や人材育成、元独立兵士や避難民のコ ミュニティ再統合、保健衛生や教育の分野で、目覚しい努力を果たし、荒廃から立ち直ってきた矢先でした。国連の規模も少しずつ縮小し、「平和構築の成功 例」と称されていただけに、突然の事態の転換について、衝撃を受ける方も少なくないと思います。

「紛争を経験した社会の半数以上が、5年 以内に再び紛争状態に戻りやすい」というテーゼを裏書きするかのごとく、東ティモールでも今回の事態が起きました。国家独立に至るまでに多くの犠牲を払 い、暴力を経験してきた、トラウマを抱える東ティモールにとって、完全に平和が定着するまでの道のりは、まだまだ長いようです。ラモス・ホルタ外相はその 報告の中で、"Dili was on the edge; fear was palpable among people already traumatized from past violence"と述べているとおり、東ティモールは、現在、岐路に立たされています。

続 く安保理理事国の発言では、ボルトン大使も姿を見せた米国が、「現UNOTILを1ヶ月延長し、現地の事態が沈静した後、安保理で状況判断する」と提言。 一方、仏・英が今回の事態を重く見ているのに対し、主要ドナーである日・豪は、「平和構築の一過程」と、比較的慎重な姿勢を見せていたのが、印象的でし た。また、旧宗主国のポルトガルは、故セルジオ・デメロの過去の功績と、近い将来入ってくる石油収入にも触れ、東ティモールの事例が国連の絶対的な役割と してこれまでメディアやアカデミアで引用されてきた中、国連は、今後も世界で最も新しい国の"fragile democracy"を支え、平和を定着させていくべきであると、まとめています。

理事国の発言が一巡した後、 最後に、長谷川代表がアルゼンティンのコメントに答える形で、今回の暴動のroot causesについて下記の3つ挙げ、5日の協議が終了しました。

i) institutional incapability to address grievances, due to lack of viable policies regarding human resources management, mostly in the armed forces;
ii) poverty and unemployment, particularly among the youth, who had nothing, nothing to lose; and
iii) the mindset of certain interest groups with a propensity to resort to violence and incite the population for the purpose of increasing their political influence.

今後の対応策として、1)人事政策を含む、組織管理能力の強化(特に軍)、2)若者の失業対 策、3)暴力手段に対応する警察能力の強化と教育、などが考えられます。いずれにせよ、荒廃から始まった国造りの支援と平和の定着には、長期的計画とコ ミットメントが必要のようです。 5月20日のUNOTIL mandates期限終了を前に、今後、決議採択の行方が注視されるところです。

尚、 余談になりますが、今回の安保理協議開催に合わせて、去る3月に東ティモールを訪れた女優の藤原紀香さんが、国連本部内で写真展を開いていらっしゃいまし た。( メディアでも報道されています。) お仕事のお忙しい合間を縫って、安保理傍聴席にも訪れ、真摯に協議に耳を傾けていた姿が印象的でした。

最後に、簡潔で印象深かった、シンガポールの発言を引用します。

"This is about commitment," he said, adding: "We should not jeopardize what we have achieved so far in Timor-Leste." The phrase "penny wise, pound foolish" had come to mind, especially given statistics showing how easily societies that had experienced civil strife could return to those situations. Everyone spoke about successful peacebuilding. This was an opportunity for the international community to remain involved and help ensure continued success."

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Wednesday, May 3, 2006

67. Ethical issue??

今学期最後の授業が、月曜日に終わりました。最後の授業は、AuditしているMichael Dolye先生の"Topics in International Ethics"。今学期(そして恐らくSIPA在学中)、最も印象深く、また最も質の高い教授と授業内容でした。毎回クラスでは、先生が淡々と重いテーマ を学生に提示し、PhDの学生数人も含めた20人ほどの受講生で濃いディスカッションが繰り広げられます。毎度テーマが重過ぎて、私は授業後もしばらく数 日、なかなか消化しきれなくなってしまうのですが、最後の授業も多分に漏れず重い課題でした。前回二回、international distributionの回で、経済格差の不平等と分配の問題について議論したのち、5月1日に最終回を迎えました。

「何故、リアリス トは、国内法で人々に人権と機会の平等を保障しているのにもかかわらず、一歩国の外のことになると、飢餓や殺戮にさらされている人々を見過ごし、何もしな いでも倫理的に済まされるのか。」「"Decent"といわれる国々の人々は、飢餓や殺戮にさらされている"burdened"に対し、その場凌ぎの "Aid Assistance"をすることで気を済ませているが、何故、(根本的な解決をするために、)国内で保障する人権と平等について、国際社会の中では責任 を追わなくても倫理的に許されるのか。」

リアリストに挑戦するリベラリストの倫理的問いに対して、リアリストの答えは、先生によれば、 「人権を守るとは尊厳を守ることだが、尊厳の与え方(dignify)は文化によって異なるのでタッチしないでもいい、という言い訳がつく」 (cultural differences)。また、「目の前で瀕しているのでなければ、特に関わる責任も生じないと感じ、良心の呵責に苛まれることもなく、干渉しないとい う選択をとる」(self-determination/self-deffence)。という、二つがあるのでは、とのこと。皆さま、いかがでしょう。

つ くづく思ったのは、国際社会で急速に広がっていく格差や不平等の問題について、開発経済学などで「どのように是正していくか?」ということが広く学ばれる ことはあっても、その前提となる「なぜ是正しなければならないのか?」という根本的倫理的議論が、これまで抜け落ちてきたのだと気付きました。同級生や学 外の人と話していると、何故日本はアフリカに関わらなければならないのか、 とよく聞かれます。何故、他人事の貧困削減に、日本を含めた国際社会が取り組まなければならないのか、国内だって大変な状況なのに何故ODAを GNP0.7%まで上げる必要があるのか、国民になんて説明するのか、何故スーダンに自衛隊を派遣しなければならないのか。Let them fight among themselves! などなど…。

確かに、日本にとってアフリカは、地理的にも遠い、歴史的責任もない。し かし、アフリカの惨状を解決することは、グローバル化後貿易などで相互に依存しあい恩恵を享受する国際社会が、急務の課題として取り組んでいる共通の問 題。実際、安保理で話し合われる議題の6.5割は、アフリカについてです。2001年9/11以降は、前にも述べたとおり、貧困がテロの温床となるという 安全保障との深い繋がりが認識されるに至り、米は対アフリカ援助額を4倍近くに、仏も3倍以上にあげています。(主要国の援助額推移グラフ) 対アフリカ問題の取り組みは、国際社会の平和と安定のための戦略と位置づけてられているからです。日本は国際社会の一員として、恩恵を受けている限り、問 題の解決に対する責任があるのだと思います。…といっても、なかなか実感として沸かないのが普通のようです。でも、今回の小泉首相のアフリカ訪問もそう いった背景があると思います。

私が公共政策を勉強したかった理由のひとつは、国内の公共政策の考え方や政策を、どのように国際公共政策に 汎用させるのか、考えてみたかったこともあります。(が、そのような勉強は全くできず、リアリスト集団の中で喘ぐだけでした。)国内では、税金や社会福祉 政策による富の再分配・所得再分配が政策の中で実施されているが、国際社会には税金などない。1年間、経済の仕組みを勉強しましたが、これでは格差が広 がっていくばかりで、是正に向けた解決策とはならない、と理解しました。(間違ってるかしら。)

微々たる援助や経済成長をしたところで、 到底、平和と安定のための再分配には及ばない。要するに、南北の不均衡と不平等の問題を解消しよう、機会の平等と人権を保障しようという、国際社会の「政 治的意思(political will)」が足りないことが問題である、と、リベラリスト・Doyle先生は"ethics"と銘打つ授業の中で伝えたかったのでは、と思い至りました が、どうでしょう。"Responsibility to protect"の掲げる国際社会の責任の概念が、人道的罪の阻止のみではなく、国際人権や機会の平等の保障へも、幅広く浸透していくよう、いずれ理論の 構築が為されていく必要があるように思いました。



余談ですが、もうひとつDoyle先生の授業の中で印象に残っているの は、Wars and Massacresの回でもあります。その週は忙しくて予習できず、題名だけ見て「ルワンダかダルフールのことかしら~」なんて暢気に授業に出たところ、 最初から最後まで広島・長崎の原爆投下の是非が話し合われました。(「Wars and Massacres」と聞いて他人事と思っていた、己の認識不足と準備不足を、深く恥じました。)

20人近い受講生のうち、日本人は外交 官T君と私の2人のみ。ディスカッションになると、学生から次々に「ソ連の侵攻を防ぐには仕方なかった」「日本兵のアジアにおける女子供相手の蛮行を考え れば、日本人の女子供が原爆の対象となるのも当然の報いである」「結果オーライでしょう」という意見が旋風し、私が隅の方で一人わなわな震えていると、T が「本当にlast resortだったのか?」「2つ目の投下は本当に必要だったか?」などの意見を出しましたが、あまり反応はない。

Doyle 先生は最後に、「他に戦争を止めさせる手段があったとすれば何か」と問うていましたが、特に目立った答えはなく、逆に「原爆投下後も当時の戦時内閣の半分 以上は戦意を喪失していなかった」とたたみかけられました。戦後にできた国際人道法(いわゆる戦争法)は、日本やドイツの戦時行為を防げなかった反省をも とに作られたことも、後に別の授業で学びました。遅らばせながら、米国で国際関係学を学ぶ洗礼(もしくはSIPAの洗礼)を、浴びたようにも思います。 もっと理論武装できるだけの知識を、国内で学びたかったとも思いました。

さて、そんなDoyle先生も、来学期から1年、サバティカル へ。先生が秋学期に通常開講しているPKOの授業がとれないのは、残念でなりませんが、少なくともこの授業で、SIPAに来て心より良かったと思える偉大 な先生に出会えたことは、本当に幸運でした。勧めてくれた同級生方、そして授業後の消化不良解消に時々付き合ってくれたT君、どうも有難う。

そういえば、そろそろ小泉さんがガーナを訪問中の頃でしょうか。この8~9年、ぶーぶー文句を垂れてきた私にとって、ちょっと感慨深いものがあります。時代は変わるものよのう…。

ところで、もう一人の偉大なる先生、Madam Lindenmayerについては、また次回。

Sunday, April 23, 2006

66. Gala

先週月曜日に、経済のグループ・プレゼン「自由貿易とアフリカ」が終わる。Yのwisdomにより、何故アフリカがFree Tradeの恩恵を受けられないのかについてミクロ分析したあと、タイ出身のNと、先日のWTOで日本が途上国にも提唱した一村一品キャンペーンを紹介し、タイやアジアでの成功例をアフリカへと締めくくった。苦手の経済だが、Yのおかげで理解も深まった。本当にどうも有難う。翌日には、UNDP新総裁のKemal Dervisが、 SIPAに講演に来たので、連日の徹夜明けだったが眠い目をこすって参加。新総裁ということで、どんな人か楽しみにしていったが、世銀出身・元トルコ蔵相 のエコノミストらしい、硬い話に終始した。UNDPの最大の使命のひとつである貧困削減について語り、経済発展に伴う格差と不平等の是正には、経済政策だ けでなく、ガバナンス(institutional development)が重要であるとも強調。その他貿易についてなど一部、経済のプレゼンと内容も多少かぶっていたところもあったので、大変興味深 かった。もっと勉強しなくては、いけません…。

翌日水曜日には、授業の合間を縫って、米国連大使ボルトンが来SIPA講演を聞きに行く。 参加登録をしていなかったので、当日waiting listに並んでいたら、なんと開演ぎりぎりになって、最後まで空いていたボルトンの目の前の席(reserve席)で、彼を拝む破目になった。いやは や。こんな素晴らしい機会を、このおじさんのために使うだなんて。もっといい人のときに、いい席で聞きたかったかも…。講演では、現在交渉中の国連分担金 率について、「これからはGDPを、purchasing powerで計算するよう、僕は提案する、そうすれば中国は12%、日本は10%の分担になる」とのこと。目の前で延々と繰り広げられる、相変わらずのボ ルトン節を聞き流しながら、何故、彼は髭だけ真っ白なんだろうと眺めいっておりました。肝心の安保理改革については、たいした言質もとれず。翌々日の金曜 日には、PoPのグループ・プロジェクト、「安保理改革-日本とG4の攻防」のケース・ライティングを最終提出。やっと終わった~!いろいろな人にインタ ビューに行けて、振り返れば、とても楽しかった。先日の"Team Torture"に続き、こちらのグループは、その名のとおり、"G4"、K,T,A、どうも有難う! We are the best "Group 4"ね。これで、1単位しかもらえないなんて、ほんとにありえない。

金曜夜は、セントラル・パークのTavern on the Greenで 開催されたSIPA卒業パーティー・Galaへ。私の卒業までには、あともう一学期残っているけれど、一年半を過ごした同級生2年生の卒業のお見送りに。 また、ルームメイトを含め、一緒に春入学をした親しい何人かも3学期で終了させて卒業してしまうので、私にとっては少々感慨深い。みんな、おめでとう!

Gala 前、隣の部屋で、準備にお化粧にと、どたばたしているルームメイトとその友達を見て、私もそろそろ支度を始めなくちゃ、と思っていると、二人が気を利かせ て用意したシャンパンとケーキが…。思わぬ pre-Gala @ our apartment。いいルームメイトをもって、つくづく幸せである。乾杯後も、お互いまた、あっちのスカーフがいいかしら、この爪で大丈夫かしらと、あ れこれ大騒ぎして、お洒落して、もう一回乾杯して、写真を撮って、あとは会場でまた会おう!、と、街へ繰り出す。私も、着物姿や素敵なドレス姿の同級生 と、3人でセントラル・パークの会場へ向かう。

着くと、綺麗に着飾った同級生たちで溢れ返っている。羽織袴もいれば、リムジンで来たメン バーも。あっという間の華やかなひと時を過ごし、2時半ごろ帰宅。総じて、楽しかった! 不思議なことに、NYでは学生だからか、これまでこういった華や かな場がほとんどなかった。東京やフィールドでは、何かと結婚式やら送別会やら来賓イベントやら何やらがあったのに。だから週末は、勉強も将来のことも忘 れて、久しぶりの自由で華やな雰囲気を、充分楽しんだ。独身でいて、自分の道を歩いてこれて、自由を謳歌できて、本当によかったと、なんとなく思ってし まった。

けれど、途中でカメラを紛失したことに気付く。あーあ。また、やってしまった…。今度は見つからないかな…。なので、写真はあり ません。そして、家に帰れば、二日酔いと、ペーパー20ページと25ページと、その他諸々の現実が待っていた…。本当に、終わるのかなー…。えー、昨晩の フォーチュン・クッキーから。"Over every mountain there is a path, although it may not be seen from the valley." 

…見えない。 深い谷の合間にいるみたい。

Thursday, April 13, 2006

65. End of Torture...

先日、長い間頭を悩ませていた、グアンタナモ模擬裁判と、スーダン・プレゼンが終わった。長らく気が重かったが、終えたあとの歓びはひとしお。直前までい ろいろアドバイスを下さったD,M,C、どうも有難う。そして、CAからNYに寄ってくれた中高時代の同級生Kも有難う。

国際人権法の授 業の課題だった、先週のグアンタナモについての模擬裁判は、間違いなく、SIPAでの特別な思い出となりそう。内容についていろいろいいたいことはある が、長くなりそうなので、いつか時間があれば書きたいとは思う。我がチーム・米政府擁護組4人は、気持ちを入れ替えてなりきるために、星条旗のバッジを胸 につけて臨んだ。アルカイダとそのサポーターがジュネーブ条約に適用しない理由、そして彼らを、国際法廷や民事法廷ではなく、軍事法廷で裁くことについて のlegitimacyを弁論する、という課題だった。もちろん、相手チーム4人のNGO側からの反論もある。裁判官役には、Danchin先生とNYU の先生、そして実際に9/11以降政府側の弁論をしていたlawyerの3人が並び、息をつくまもなくビシバシとlegal questionsを学生に投げかけてきた。

裁判が終わったあとは、私が、裁判官役の先生からの質問攻めに対し、最後うまく答えられな かったことを少々落ち込んでいたら、"The most important thing is that we've completed! You've done well. True! They came across difficult questions, because you made a good argument." とチームメイトに励まされて、浮上した。

一方、Conflict Assessmentの課題、スーダンについてのプレゼンの方は、ダルフールを入れるかどうか最後までいろいろ迷ったが、直前でなんとかまとめ、形になっ た。(直前までアドバイスをくれたC、どうも有難う!)こちらは、プレゼン後に25ページのペーパーを提出することになっている。

どちらも、授業の中で一人で英語のプレゼンをするのは初めてだったので、プレゼンが苦手な私にとっては、ずっと気が重かった。なんとか、こなしおわり、ほっとした。とても勉強になった。

こ れからの10日間も、しんどい。経済のグループ・プレゼンとペーパーと宿題が明日、PoP(Politics of Policy Making)の安保理改革とG4案についてのCase Writing 20ページ最終仕上げと国際人道法のペーパー5ページを金曜日までに、それからConflict Assessmentの授業でプレゼンしたスーダンについて25ページと、SC/PKO in Africaの授業のリサーチ・ペーパー20ページを次の週までに。それらを全部乗り越えると、無事、最終試験に辿りつける。

今週末は、 もうすぐ卒業していく同級生と国立公園に遊びに行きたかったが、泣く泣くあきらめ、山と積まれた残りの課題をこなすことにする。(でも昨晩は、二度目の SIPA Folliesを見に行った。個人的には昨年の方がおもしろかったけど、まあ今年もおもしろかった。今回は、無事に家に帰ってこられました。:)

神様、無事、いつか、今学期を終えることができますように。

Wednesday, March 22, 2006

Monday, March 13, 2006

63. AFS again... in NY.

昨晩、AFS日本協会・NY友の会懇親会に初めて出席してきた。日本協会東京事務 所でお世話になった職員の方をお迎えするというので、同世代との出会いでもあるかしらと期待していったら、団塊の世代のおじさま・おばさまばかりの中に、私一人ポツン と若輩者。JBIC審議役、代表部公使、民間企業の重役、在米法律家など、そうそうたるメンバーの中で、内心オロオロしながら、できるかぎり隅の方でお行儀よく大人しく、引きつった笑顔で座っていた。しかし、ちょうどいいところに若い女性が来た…と煽てられ、いい気になったところで、少しだけお手伝いする羽目になりそうである。

私が大学時代の4年間のほぼ全てを注ぎ込んだAFS日本協会神奈川支部は、高校留学を通じた国際異文化理解教育を目的とする民間の財団法人(文部科学省下)である。日本では、先日、緒方貞子さん(Non "Returner")を招いて設立50周年を記念したばかりのようだったが、国際本部はNY にあり、1919年に活動が始まって以来、世界50カ国以上にオフィスを置いている。毎年、世界で11,000人、日本国内では400人以上の高校生(年間派遣生)を、欧米、中南米、ASEAN、北欧各国の高校へ派遣、同時に留学生を受入れている。日本国内に60以上の支部を持ち、ホスト・スクール、ホスト・ファミリーへのサポートなどをしながら、国際異文化理解教育の機会を、地域に提供している。AFS生は、言葉もわからない各国の高校と家庭に1年間放り込まれ、四苦八苦しながら言葉を覚え、異文化の壁を越えるAFS体験を通して、多様性と、異なる価値や尊厳の尊重、差異の尊重、寛容性を身につけてい く。(詳細はこちら。

AFS (American Field Service:米野戦奉仕団)の歴史は、もともと第一次世界大戦に遡る。パリにいたアメリカ人が、傷病兵を救護輸送するAmerican Ambulance (Service)の活動を始めたことが発端。一次大戦終了後、戦後の反省のもと、異文化理解教育を目的に、仏大学生を米国に送る、AFSフェローシップ・プログラムを開始。第二次大戦が始まると、傷病兵輸送サービスの活動を再開。中東、北アフリカ、ヨーロッパ、インド、ビルマなどで救護輸送を行い、1945年には、AFS救護輸送車ドライバー約70名が、ナチ強制収容所からのユダヤ人開放の輸送に従事。第二次大戦後、国際奨学金制度を設立。11カ国から 52名の大学生、高校生が米に派遣され、日本からは1954年、第1期生8人が氷川丸で渡米。以来、派遣・受入国は50カ国以上に広がり、現在までに、延べ32万5千人、日本国内では約1万人以上の高校留学生を輩出してきた。(詳細は、英語)よく、世界各国におけるAFSボランティア組織の裾野の広がりを、赤十字と比べたりするが、もともとは発祥の経緯にもあるようだ。個人的には、最近、国際人道法(戦争法)を勉強しているので、すっかり忘れていたこうした経緯は興味深くもある。皆さんの記憶にあるかもしれないのは、10年以上前に米で起きた、日本人留学生射殺事件かもしれない。事件後、遺族が中心になって米銃社会への規制を働きかけ、米日AFS事務所やAFSボランティア・ネットワーク(ホスト・スクール、ホスト・ファミリー、リターニー、ボランティア)もサポートした。

そうして派遣されたAFSリターニー(Returner: 留学経験者)は、最近は、日本国内でも、外交畑をはじめとし、政界、財界で、随分と活躍しているようだ。名簿については、悪用を恐れ、一切公表していないので、その全容は知れない。私自身は、大学時代ボランティアとしてあれだけの時間と精力をAFSに費やしたというのに、リターニーの現在のことを、あまり意識したこともなかったので、先日の懇親会まで、大御所がごろごろいることなど、ほどんど知らなかったので驚いてしまった。懇親会でも、だいぶ話題になったのが、S外務副大臣、I元軍縮大使(少子化担当大臣)、A広島市長をはじめ、各国大使。 (3月初めの国際本部代表訪日記事を 参照のこと。)NY周辺でさえわかっているだけで、O国連大使、T公使、N放送局F米総局長、A新聞米総局長ほか、上記前出メンバー。私の周りでも、東ティモールでもお世話になったUNICEFのU東京代表をはじめ、国連職員の中にも何人かAFSリターニーやボランティアがいる。時代の違いもあるだろうが、改めてみると、高校時におけるAFS留学は多くの人材を国内外に輩出しており、その教育的効果は計り知れないものがあるようだ。AFSが他の数ある留学プログラムや国際交流プログラムと圧倒的に異なるのは、その体験を、多様性の尊重と差異への寛容の精神、平和の追求、という国際社会の原則的価値に汎用させる、徹底したオリエンテーション(出発前・留学中・帰国後)と丁寧なサポートシステムによる教育的要素だと思う。それらを全てボランティアで回し、特定の宗教も政党も企業のバックもなく、純粋に、色をつけないようにやっているのだから、運営事務局はかなり大変である。

ここ数ヶ月間、SIPA同級生らと交わした、ODA議論、移民議論、難民議論、国内における「外国人問題」、中国との関係悪化に伴うナショナリズムの高揚に対する議論などを繰り返すにつけ、国内 における国際理解教育(異文化理解教育・開発教育の両方)が如何に大切かを思い知らされる。そういう意味で、AFSの使命と 役割の果たす効果は大きい。学生ボランティアをしていた大学生の頃は、ぼんやりとしか理解していなかったが、紛争解決や平和構築、和解の現場を見てのち勉強している今、改めて、異なる価値感や尊厳の尊重、寛容の精神が、平和な社会を実現するという、言葉の重みを痛感する。東京では最近、国内「外国人問題」 について、IOM(国際移民機関)を招いたシンポジウムが、 開かれたようである。前にも議論したが、移民や難民を受け入れるだけでなく、外国人観光客や海外投資を呼び寄せるには、日本社会も異文化を尊重する社会へと変容する必要があると思う。また、外相がAsia Wall Street Jornal に最近掲載した"Japan Welcomes China's Democratic Future"と題する意見記事も、 大変興味深かった。外相のいうように、日中の高校生数百人が、近い将来、交換留学をしあい、ホーム・ステイをする、そんな未来が本当にやって来るのだろうか、と思ってしまうほど、現状は悲観的でさえある。が、こういうのは、国内における地道な機会の提供で、時代と共にいずれ変わっていくものでもあるとも思 う。その意味で、AFSの役割は、改めて大きい。

興味深かったのは、今回の懇親会で、10期~14期の皆さんが、AFS日本支部を支えた大学生ボランティアだった頃の話に、華が咲いたときである。当時は、学生闘争の時代だったそうで、リターニー・学生ボランティアは、体制派と反体制派に分かれ、出国前オリエンテーション中に、新橋のビルの元で揉みあいになったり、羽田空港でビラが撒かれたりしたそうだ。あの時代に、米国に高校生を送ることが、センシティブだったのは想像に難くない。当時大学生ボランティアだった、Iさん(少子化担当大臣)やF元キャスター(N放送局米総局長)も、反体制派リターニーに潰されかかった日本事務局を守り、財団に申請する手続きをとるため、虎ノ門で一緒に奔走していた、という話を聞いたときは、にわかに信じがたかった。他には、今でもミャンマーからの留学生には政府から監視員がつくこと、中国からの留学生が帰国直前に帰りたくないと日本国内で逃走してしまった話など、様々なことが話題に出た。 ASEAN交流などの目的で留学生の数を増やすのは簡単だが、欧米ではなくASEANからの留学生を1年間預かってくれるホスト・ファミリーを日本で探すのは、容易ではない仕事だとも、話していた。

私自身は、高校生のとき、AFS留学から帰国した同級生に、御殿場で行われる5日間のサマー・キャンプに 誘われたのがきっかけだった。両親の許可を得て、お小遣いをはたいて参加。欧米の学生に会うのを楽しみにしていくと、そこには多くの中南米やアジアの高校生たちがいて驚いた。グループ・ワークを通して、モンゴルとタイからの留学生と仲良くなり、言葉や人種、文化の違いの壁を超えるのが楽しくて、将来は国際 関係の勉強をしようという動機にもなった。大学生になってから、AFSがキャンプ・スタッフを募集するというので、学生ボランティアに参加。御殿場でのイ ンターナショナル・サマー・キャンプの企画を中心に、各国留学生の受入プログラムのオリエンテーションや、神奈川支部の交流プログラムを、手伝った。毎日 のように新橋・虎ノ門の事務所に通い、夜中まで議論しあい、仲間と費やした濃密な時間は、いい思い出だ。

当時の大学生ボランティアの仲間は、高校時代、AFSで留学したメンバーが中心だった。デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、メキシコ、コスタリカ、ベネズエラ、アメリカ、オーストラ リア、マレーシア、タイ…、帰国後は、日本社会への再適応と大学受験に苦しみながらも、強烈で特殊な体験をもとに自分の道を切り開いていっていた、当時の仲間から受けた刺激は大きい。私自身も、大学で国際関係学を学ぶ傍ら、AFSのいう異文化理解教育の重要性に気付いていた。当時企画していた、たった5日間のサマー・キャンプでさえ、日本人高校生200人と受入留学生50人に、どういう国際異文化体験をしてもらうか、留学に行けない高校生のために国内でできることは何か、どのようなきっかけを掴んでもらうか、どんなメッセージを伝えるか、大学生ボランティア50人をどうトレーニングするか、ということを、毎晩のように当時の仲間と、虎ノ門の事務所で遅くまで議論した。あまりにも毎晩、虎ノ門から終電で帰り、長電話で話し合うので、家族からは勘当すれすれだった。

本業の学業そっちのけで、どっぷりと漬かったAFSボランティアでの数年に疲れきり、また国際開発を勉強していたのでフィールドへ行ってみたい、私もAFSのような異文化体験をしたい、などなどの理由が重なって、大学4年生秋からCIEEという団体を通して、ガーナ大学に留学することに決心した。開発コンサル(三祐コンサルタンツ) やレストランなどのバイトを重ねてお金を貯め、アフリカに1年行きたいと家族に伝えると、母は泣いて反対したが、父は折れ、最終的には認めてもらえた。しかしその後、東ティモールでの仕事も、大学院留学でさえも、強い反対に合った。私が途上国に関わる仕事を選ぶことをようやく理解し、認めてくれるようになり、親との確執がなくなってきたのは、実はほんのこの1~2年のことである。だからこそ、異文化理解を日本社会に求める意識が、私は強いのかもしれない。 香港に仕事で3年住んでいた我が親や兄弟ですら、説得にこれだけの時間がかかったのだ。日本女性が、国際社会に出るまでには、場合によっては様々な障壁がある。男性には、そういった精神的労力は、想像もつかないかもしれない。

ガーナに留学していたときも、AFS事務所があると聞き、帰る前に一度だけ訪ねにいったことがあった。小さな事務所を訪れると、温かく迎え入れられ、それなりに嬉しかった。日本もいつか、ガーナを初めとしたアフリカの高校生との交換留学を始めればいいのに、と心から願う。昨年、ドイツを旅行したときには、一日だけ利用したケルンのユース・ホステルで、AFS大学生ボランティア相手のオリエンテーションに遭遇した。私も東京で同じようなことやってたよ~と、ひとしきり盛り上がった。ドイツでは、旧東ドイツ地域との交流や、東欧との交流にも、力を入れるらしい。

暫くは、AFS日本協会が現在3人しか受け入れていない中国の留学生を9人まで拡大するそうなので、それが遠い将来、どう発展するのかを、見届けたいと思う。ASEANプログラム同様、AFSが中国プログラムも広げていけたらいい、と願う。

ホスト・ファミリーは、年中、探しているようですので、ご関心のある方は、こちら。今年から、高校生だけでなく、大学生やシニア、子供も参加できるプログラムを拡大したようです(こちら)。まさかこの期に及んで、またAFSとの縁があるとは、夢にも思っていませんでしたが…。


(写真は、昨年、ドイツ・ケルンのユースホステルで遭遇したAFS学生ボランティア。)

Tuesday, March 7, 2006

62. Passing the Baton on Drinks

半年ほど前に、NからMixiで「酒バトン」が回ってきたのに、すっかりお返事してなくてごめんなさい。Kから「飲み会バトン」が回ってきたので、ふたついっぺんに。

Q1 酔うと基本的にどうなりますか?

あんまり変わらない。と、言いたいところですが…。先日は、全く違う普通の人を指して、松井がいる~、などと申しておりました。お恥ずかしい。

Q2 酔っ払ったときの最悪の失敗談は何ですか?

最悪とは言わないけれど、以前、耐え切れず、既に懺悔しましたとおり。(こちら続きの話。)友人Lには、心配かけた。でも、いろいろあったの…。(←いいわけ。)ええい、二十代の良き思い出として、笑い飛ばそう。

あ とは、十代のとき、大学時代、方々で語られた、品川ホームレス・ネタでしょうか。(懐かしいね~、Lib。)大学二年生のとき、AFSの新歓コンパで飲ま された帰り、山手線で寝てしまい、ぐるっと回った挙句、終電・終点の品川駅で駅員さんに起こされた。帰る術も無く、困り果てた末、自宅には友達のところに 泊まると電話し、実際は改札の外で始発を待つことに。外は春雨が降り始め、酔っ払いのサラリーマンに絡まれたり、薄着で寒がってたり、自己嫌悪に苛まれな がら心細く佇んでいたら、近くに座っていたホームレスのおじいさんが、段ボールと新聞を貸してくれた。これが暖かい! しつこく絡んできたサラリーマンは 諦めて去って行き、ホームレスのおじい様には、これからは気をつけない、とたしなめられる。段ボールの上で数時間、座って過ごした後、始発が来てから、お じいさんに御礼を言って帰ったのだが、暫くなかなか、その出来事が忘れられなかった。その後、当時世間で盛り上がっていた、都知事とホームレス問題につい て、豪人留学生(タニア…)のリサーチ通訳を手伝うことに。私もついでにゼミ論として、リサーチして発表したりしたんだっけ。懐かしい。学生らしくて、い い話だ。

Q3 そのときはどのくらい飲みましたか?

相当。

Q4 最悪の二日酔いはどんな感じでしたか?

頭痛に苛まれ、何をしようとしても、何も手につかない。仕方なく、水をたくさん飲む。そして三日酔いへ…。そして迎い酒へ…。

Q5 酔っ払って迷惑をかけた人にこの場で謝りましょう。

ダイアナ、ごめんなさい。家まで帰らせてくれて、本当に有難う。さもなくば、あの後、あの6階で昏睡していたかもしれませぬ。…恐ろしい。そして、品川のホームレスのおじいさん、有難う! 人を見かけで判断してはいけないと、そのとき学びました。

Q6 今冷蔵庫に入っているお酒の量は?

我 が家のルームメイト二人(一人は、元バーテンダー)と私の三人で、一つの冷蔵庫をシェアしているので、常時ビール7~8本程が収容限度。冷凍庫の方には、 前のルームメイトが置いていったカルーアとジンとウォッカが。今までは、常時、ワインかお酒があったけれど、最近は控えておりますので、今はない。

Q7 好きな銘柄は?

日本酒は、浦霞、酔鯨、八海山など。焼酎は、ほとんど飲まないけれど、兼八(ほんとに麦チョコ味でした)を、最近教えてもらった。銘柄ではないが、ワインの葡萄は、シャルドネ(白)か、メルロー(赤)を、選ぶことが多い。よく知らないから。

Q8 最近、最後に飲んだお店は?

ちょうど先週末、ミッドタウンの「酒蔵」で。K氏とA子と。

Q9 よく飲む思い入れのあるお酒は?

よくは飲まないけど、思い入れのあるお酒をふたつ。

ジン(Bombay Sapphire
昔、 大学一年生の頃、1ヵ月半程、NZでファーム・ステイをした際に覚えた。ホスト・ファミリーのお父さんが、よくジン・トニックを作って飲んでいて、時々私 にも作ってくれた。夕方、小さな牧場での仕事を終え、庭からライムを採ってきて、外のテーブルで飲むのが、美味しくて、忘れられず。社会人になってから、 あの綺麗な青いボトルが、Bombay Sapphireだったのを知り、感動。以来、今でも、何とかの一つ覚えで、カクテルはジン・トニックしかよく知らない。あとは、モヒートとか。さっぱり 辛口系が口に合うよう。

白ワイン(Vinho Verde
ポ ルトガル・ワイン。魚料理に合う、これもさっぱり辛口系でフルーティで美味しい。東ティモールでは、海岸の浜辺沿いに、点々と屋外の魚料理屋さんがある。 東ティというと、統治時代のインドネシアのイメージが大きい方も多いかもしれないが、独立後は、ポルトガル系やオーストラリア系のレストランやワインが多 く、私もよくいろいろ飲んだ。当時は、UNDPオフィスの代表と副代表が日本人と中国人で、East Asianの典型らしくハード・ワーカーの仕事の鬼が揃い、スタッフは皆、夜遅くまでオフィスに残って仕事をしていた時期だった。家に帰っても停電でシャ ワーも浴びれず暑苦しいので、発電機とクーラーとインターネット接続のあるオフィスに残って仕事を続ける。独立後で不安定な状況が長く続いていたことも手 伝って、オフィス全体でストレスが溜まっており、風邪やデング熱などで体調を崩す人が続いた。そこで、なるべく同僚同士で声を掛け合い、夕方になると、パ ソコンに張り付いている人も引っ張り出して、ジョギングやジムに出る。

美しい夕暮れの海岸沿いを走った後、シャワーも浴びずにオフィスに戻ることもあれ ば、少し余裕があるとレストランへ寄って、夕食後にまたオフィスへ戻り、深夜まで…、というパターンができた。夕食をさくっと済ませるときは、ジョギング の帰り道、浜辺のレストランで、捕れたての魚やイカを選んで焼いてもらい、サラダと食べる。しかし、ここでワインを飲んでしまうと、その後仕事にならな い。誘惑に負けて、軽めの白ワイン・Vihno Verdeを頼んでしまった日には、やはりオフィスに戻ってから、能率が上がらない。すごすごと家へ帰ると、やはり停電中で、シャワーも浴びれずに、ふて ねする…。翌日の朝には、電気は戻っているのだが、終わらなかった仕事を前に、後悔に苛まれる。誘惑のVinho Verde。フィールドでの生活とは、こんなでした…。お楽しみアレ。

















夕暮れのディリの海岸 ジョギング・コース photo by Hakan Ugurlu

Sunday, March 5, 2006

61. Conflict and Development

先日、国連フォーラムで、たまたま今、私が勉強していることについての勉強会があり、メーリング・リスト宛てに報告を書く機会がありました。ブログ用に少し訂正したものを、下記に引用しておきます。こんなことを勉強しています、のご報告がてら。

尚、「国連フォーラム」というのは、国連を中心とした情報・意見交換を目的とするフォーラムで、私も幹事を務めています。メーリング・リストを中心に、NYでの勉強会や、 フィールドからのレポートなども行っています。(今後は東京での勉強会も企画中のよう。)幹事会では、国連邦人職員会や外務省国連代表部の方々のリーダー シップのもと、我々コロンビア大(SIPA)やニューヨーク大(NYU)の学生が、運営のお手伝いをしています。ニューヨーク・ワシントン・ジュネーブ・ ロンドン・バングラディッシュ・東京を跨いで、日々やりとりし、立ち上げから約1年ちょっとの現在、メーリング・リスト参加者は約700人ほどになったよ うです。主に、国連邦人職員、外務省・JICA関係者、学生・NGO・メディア関係者などが多いようですが、MLですのでご関心があればどなたでも登録で きます。もし宜しければ、お気軽にご参加くださいな。(登録はこちらから)また、ワシントンDC開発フォーラムの姉妹版でもあるので、ご関心のある方は、そちらもご参考にされてみてください。

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先日、世界銀行NY事務所にて、社会開発局 紛争予防・復興支援ユニットのK氏による、「紛争と開発」と題する勉強会が開催されました。大変興味深い勉強会でしたので、皆さまにご報告いたします。

今回の勉強会では初めに、講師から用意された45分の世銀作ドキュメンタリー(英語)「Nation Zero」を見た後に、30分ほどお話いただき、質疑応答に移りました。このドキュメンタリーは、昨年5月に世銀から出された報告書「戦乱下の罠(Breaking the Conflict Trap: Civil War and Development Policy)」の日本語版作成に合わせ、日本信託基金で作られたもので、つい先々週、BBCでも放送されたそうです。

ド キュメンタリーは、紛争と開発の相関関係について、アフガニスタン、コロンビア、ボスニア、ルワンダの事例を取り上げてました。各地の紛争の映像を織り交 ぜながら、貧困との相関関係について、Paul Collier氏(Oxford大学教授・世銀上級アドバイザー)、Jeffery Sachs氏(Columbia大学教授・MDGs国連特別アドバイザー)、明石康氏などのインタビューをはさんで分析し、その後、それぞれのケースごと に、世銀の取り組みが紹介されていました。

衝撃的で迫力のある映像が効果的に使われていたのが印象的で、上映後は、出席者の多くから溜息 が漏れ、改めて私たちがフィールドから離れて取り組んでいる問題の深刻さを、見せつけられました。こうした世界の紛争と貧困の様子は、日本をはじめとし た、米、英などドナー諸国に住む一般納税者には、なかなか実感・認識しづらいことです。今回の上映では、貧困や紛争などの問題について、映像が視聴者に訴 える強さを、改めて認識させられました。

一方で、援助機関とドナー政府は、ODA額の引き上げを実施/要求するだけでなく、一般納税者に 対しアカウンタビリティーを積極的に果たしていくべきだとも、思いました。プログラムの実施を報告するだけでなく、取り組みの意図や問題意識を、映像を 使って問うことの重要性も感じました。多くの報告書やパンフレットが援助機関から出版されますが、それらに関心をもち理解する納税者は一体どれほどあるの か、以前、実際に自分で作っていて疑問に思ったことがあります。有名人や芸能人を途上国につれた広報目的のテレビ番組はいくつかありますが、今回のドキュ メンタリーのように、途上国の紛争や貧困と先進国の生活との直接の関係を視聴者に問い、問題意識を養うことも大切だと思います。教育チャンネルの中で開発 教育の番組を流すとか、ドキュメンタリー番組を作るなど、異なる対象者ごとに少しでも多くの途上国の現状と先進国の生活の乖離と関係を問う映像が、日本で も放送されるべきだと、常々個人的に思います。この点について、国連フォーラムやメディアの皆さまの率直なご意見も、お聞かせいただければ、光栄です。

さ て、勉強会では上映後に講師から「紛争と開発」の関係と世銀の取り組みについて、解説がありました。世界の最貧国20カ国のうち、80%以上が何らかの紛 争と暴力を経験しているだけでなく、紛争を解決した国の50%が、5年以内にまた紛争状態に戻ってしまう。冷戦後の90年代に各地で紛争が相次ぎ、現在で は、世銀貸付対象国184カ国のうち約1/4が何らかの形で紛争に関係している。こういった背景から、世銀も紛争時におけるDevelopmentの役割 を認識しなおし、ユニットを設立して、研究やアセスメント、国連との協調などを、この10年で進めてきた。東ティモール、アフガニスタン、イラク、リベリ ア、ハイチ、スーダン…と、少しずつlessons learned を生かしながら現場でのプログラム実施と援助協調の経験も積み上げてきている、…などなど。先日、ようやく平和構築委員会も設立され、今後、世銀がどのよ うに国連や他の機関と協調して、この分野で役割を果たしていくか、大変注目されているところであると思います。

質疑応答になると、出席者 からは主に、紛争と貧困の関係について質問がありました。貧困を解決するだけでは紛争や暴力は解決されないのでは; 絶対的貧困ではなく、相対的貧困のあ る社会、マージナライズされた格差、不平等が存在する社会で、選挙や何らかの事件をtriggerとして、紛争が始まることが多い; P5 (Permanent 5: 安保理常任理事国)の国々から貧困国へ流れる武器輸出やビデオの中でも出てきた麻薬やダイヤモンドなどの紛争資金源の問題をまず解決すべきである、などの 意見が相次ぎました。

私も、個人的には、たまたまConflict Assessmentという授業を大学院でとっている傍ら、今回の勉強会に参加したので、大変興味深い議論を伺う機会となりました。授業の中では、世銀の アセスメントだけでなく、DFID、USAID、Clingendael 、UNDPなど、様々な援助機関のアセスメントを比較してきましたが、世銀を含む幾つかの援助機関では、貧困を計る経済指標よりも、社会格差や不平等、 Justice Sector(司法)やSecurity Sector(軍・警察)の発達度、紛争アクターの国内外のリソースを測る指標などが、アセスメントの中に、多く取り上げられています。(JICAにもア セスメントがあると伺いましたが、どのようなアプローチをとっていらっしゃるのでしょうか。)紛争と開発については、貧困だけでなく、ガバナンスと紛争の 関係性も注視すべきだと思います。

また、質疑応答にもありましたが、昨年、世銀とUNDP、UNDGのために開発されたPost- Conflit Needs Assessment(PCNA)が、実際にどのように使われているのか、Conflict AssessmentとNeeds Assessmentとの関係、DPKOのオペレーションとはどのように刷り合わせているのか、今後スーダンやハイチ、コンゴで、どのように世銀と国連が 協調していくのか、具体的にconfrontしている点は何か…などなど、今後も議論を聞かせていただければ幸いです。

最後に、一番印象 に残ったのは、ビデオで出てきたボスニア人のインタビューに対して講師が触れられてた点でした。「あのボスニア人の男性は、『最初に一人、身内が殺された ときはショックだったが、その後次々に殺されて次第に慣れてなんとも思わなくなった』と言っているが、本当は今でも心の傷は深いはず。」 「Psycosocial outputとしての紛争や暴力という点は、これまでneglectされてきた分、triggerにばかり注目がいき、何が根本原因となっているかわかっ ていなかったことも多かった」と、おっしゃっていました。

深い悲しみ(grievances)と欲(greeds)が、憎悪や暴力、紛争 の形になるという研究もあります。ルワンダのガチャチャ裁判や、東ティモール・南アでの真実・受容・和解委員会では、真実を受け止め、許すという一連の心 の過程を通して、国民和解を推進していくプログラムが広く実施されてきました。DDRや4Rsなどの再統合のプログラムと同時に、忘れ去られがちな Truth & ReconciliationやTransitional justice、Psycosocial の問題に焦点を充てたプログラムも、両輪として進行していくことが大切だと思います。

今年の世銀の年次レポートのテーマは、 「Youth」だそうです。児童兵や若い兵士たちの多くは、失業や学校に行けないことで、食べていくために武器を持つことも多いようです。今後も、紛争と 開発、平和構築分野における、世銀の活躍・国連との援助協調に、注目していきたいと思います。

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Friday, February 24, 2006

60. Interview with Prof. Madam L on SC Reform

先日の投稿に続いて、今回はMadam L教授のインタビューについて。安保理改革について、主に、事務総長と事務局の立場からの見解を伺った。

■事務局の立場について
安 保理に、圧倒的に必要(absolutely necessary)な改革は、「effectiveness(working methods)」よりも「legitimacy(enlargement)」である。国際平和と安全保障を司る安保理として、そして事務局・PKO局に とっても、各地域の利害を代表する国が、安保理のメンバーに選ばれる、民主的な組織になるべきである。安保理決議の65%はアフリカに関することであるの に、アフリカは席が少ない。事務総長の立場(G4とAUの支持)は、明確だった。彼自身、どこに行っても、記者会見や懇談の中で、自分の立場を明らかにし ていた。が、当然、事務局に安保理改革を決める権限は、全くない。P1(米国)をはじめとした、理事国が決めることだ。現実的には、安保理拡大の道のり は、長いだろう。

■G4案について
先日も、小澤大使に説明してもらったが、今はどうやら、水面下でG(1+3)が進んでいるよ う。日本は単独で米国と調整しているようだが、代表国争いで分裂しているアフリカ(AU)とも、どこまで調整できるかが、鍵では。また、大使も少し触れて いたように、今年末のPKO予算のアセスメント(計算方式)の見直しの際に、どこまで日本が財政的なプレッシャーをかけるについて、様子を伺ってみたい。

■今後の安保理改革について
安 保理改革は、何も最近いいはじめたことではない。90年代から少しずつ、手続き(working methods)の改革を進め、透明性と効率を高める努力をしてきた。冷戦が終わり、安保理が再び機能しはじめた90年代、ソマリアやボスニアなど世界各 地で紛争が勃発、PKOミッションが急激に増えて、安保理の機能性と財政が危機に陥ったことがあった。以来、非公式会合の中で物事が決められていた方式か ら、少しずつではあるがprocedureの改善が行われてきた。

ユーゴ危機の際に開発された、アリア・フォーミュラ(関 係者・専門家を招いた非公式会合)をはじめとし、年に一週間のリトリート(理事国国連代表と事務総長、事務局トップが参加)、Thematic forum、関係国を招いた公式・非公式会合の増加、月ごとの議長国持ちまわり制、PKOミッションに参加している主な国々:Troops Contribution Countries(TCCs)(主にバングラディッシュやパキスタンなど)との定例会議など、透明性と参加を増やすよう努力してきた。今年からは、会議 の公開性を高めるために、SIPA関係者が学術的立場から、http://www.securitycouncilreport.orgを 立ち上げた。(敢えて、DPIではなく。)これまで、安保理は一般の人には、雲の上のような存在で何が話し合われているかわからなかっただろうが、こうし て明日、今月、何が話し合われるか、関係資料や過去の議論などについても、一般の人がアクセスしやすくなった。画期的である。

9/11以降、テロやエイズや貧困といったsoft threatsだが世界的な脅威が浮上、安全保障の意義を捉えなおす必要がでてきた。2003年初めのイラク攻撃の際には、hard threats に対する武力行使の見解で、安保理が分裂。カナダからは、Responsibility to protectなどの新しい概念が出てくる中、もう一度世界共通の「脅威」と「安全」とは何か、再定義しなおす必要が出てきた。そうして2003年9月にハイレベル・パネルを設置、新時代の脅威を再定義しなおし、安保理改革や国連改革について、より具体的な道筋をつけてきた。

昨 年末以来現在は、S5提案の安保理working methodsの改革(注1)を、積極的に進めている。今月の安保理議長国でP1の、米国ボルトン大使も、毎回定刻通りに始まらない安保理会合を、on timeに開始するよう提案、開始時刻になるとPKO局から15分程、現場報告を含めたデイリー・ブリーフィングを行うシステムを導入した。次の議長国が その方式を引き継ぐかは不明だが、今後もこうした小さなことから少しずつ(radicalではなく、incrementalに)、安保理の改善・改革を進 めていくことになるだろう。


注1:Working methodsの改革
先日の投稿で述べた、Small 5: スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、ヨルダン、コスタリカが中心になって、昨年秋に策定した安保理改革案。 「(昨年の)安保理拡大キャンペーンのモメンタムはそれなりに意義はあったが、安保理機能性の改善の重要性については見過ごされてきた。...ふたつは同 時に進めていくべき。...安保理の拡大には、憲章の改正と各国の批准が必要な一方で、機能性の改善は、憲章の改正を必要としない。」などとし、国連総会 との関係、拒否権の使用の制限、付属組織の改革などを、提言している。


などなど。相変わらず、情熱的なマダム・リンデン。同じ安 保理改革についての話を聞いたのですが、昨日のエド・ラックによる米見解とはまるで違う言語を話しているかのように、異なる言葉を使っていたのが印象的で した。米国対国連、P1と事務局のしのぎを削る様子の一端をかいま見たような気がしました。

Wednesday, February 22, 2006

59. Interview with Ed Luck on UN/SC Reform

今日は、PoPのCase Writingのため、国連安保理改革G4案について、主に米国の立場と見方を中心に、エドワード・ラック教授をインタビューした。気づいたら、2時間。とても興味深いお話だったので、記録も兼ねて。

E.L.教授は、SIPAのCenter on International OrganizationUN Studies ProgramのDirector。今学期のInternational Enforcement and UN Security Councilのほか、Ameican Exceptionalism などの授業を、SIPAで教えている。もともとは、米のUN Association代 表を10年程務める。96年以降、ラザリ国連総会議長(当時)が提出しようとした安保理改革案の策定に関わって以来、現在も国連改革に中心的に携わる。先 学期は、Kofi Annan事務総長、Mark Malloch Brown (元UNDP総裁・現Chief de Cabinet in UN Secretariat)、Ann-Marie Slaughtor(Dean of Princeton, Woodrow Wilson)、George Mitchell元上院議員を、コロンビア大学に招いた国連改革討論会のホスト役を務めた。(過去の日記でも少しだけ触れました。)昨年4月には、米国連大使をSIPAに招いた講演会も主催。(こちらも。)Democratsで、ケリー民主党元大統領候補のアドバイザーなども務めたとのこと。今回のインタビューでも相変わらず、安保理改革について、現事務総長に対して、米人らしいシニカルで辛口なコメントを戴いた。

■米国の立場
ま ず、G4案については、ワシントンの誰に聞いても("Every Single Person I asked about it"と何度か強調して)「poorly timed, bad proposal」だと言われていた。日本の立場には皆同情的ではあるが、G4案については誰もサポートしていなかった。米ワシントンは、安保理改革その もについてでさえ、理事会のligitimacyの欠如と不平等性を認め、改革の必要性も認めるが、積極的に改革を推し進めるべきだとは思っていない。当 然、安保理の拡大の意図が、現在の米一国主義・覇権主義に対抗する、regional representativeとmulti-polarの強化なのであれば、米が本音で賛成するわけがない。安保理は、現在、歴史上、最もうまく機能して いる。拡大すれば、機能性が落ちる。ECOSOCなどは、拡大しすぎて、全く機能的していない。どんなに安保理を改革することになるとしても、米国が賛成 できるのは、20-21カ国までの拡大まで。ただでさえ批判の多い拒否権を、新メンバーにまで拡大させるというAUの提案は、非現実的である。

■G4について
味 方を作れば、その分、敵を作る。G4に反対するCoffee Clubには、アルゼンチン、パキスタン、イタリアを初め、カナダ、メキシコなど、多くの国が参加している。G4メンバーについては、第一に、ブラジル;  日本とは日系移民などで関係が深いというのもわかるが、他のラテン・アメリカとは、言葉も異なり、利益を代表していないため、地域からのサポートは決し て得られない。インドについては、パキスタンが反対するのは、自明である。また、日本と同時にアジアから二大ライバル国の常任理事国を出すことについて、 中国が賛成するわけがない。ドイツについては、米英イラク攻撃を支持しなかった怨念があり、米国は決して支持しない。第一、2003-2004年にドイツ が非常任理事国だった間は、彼らは何も目立った活躍をしなかった。フリー・ライダーの最も典型的な例である。(と、辛口。)

■日本について
米 国も私も、日本の常任入りについては、一貫して同情的であり支持をしている。昨年の12月に、訪日する機会があり、国連改革についての公演を各地で行っ た。(日本の好きな日米同盟の議論とかね、と一言。)が、常任入り作戦は、"operation by gaimu-sho"で、国民の総意ではない。小泉氏でさえ、片方で常任入りしたいと言い、片方で靖国へ行き、左と右が混在して矛盾している。本気で常任 入りの戦略があるようには見えない。中国との問題を解消するにしても、日本はどれだけ本気で常任入りしたいのか、そのためにはどこまで何を譲り諦められる のか、今後本気で考えたほうがいい。2003年秋のG4結成時点で、中国が強く反発していたことを、甘く見ていた。敵国条項の削除についてでさえ、いまだ に中国は反対している。過去の戦争の罪を忘れず、世界が平和でありつづけるために、今後もずっと残しておくべきだと主張しているくらいだ。国連改革は時間 がかかる。私が90年代からずっと提案してきた、副事務総長がマネジメントの実権をもつという改革案でさえ、実現に10年以上もかかっている。そんな国連 なので、敵国条項の削除については、とてつもない時間がかかるだろう。

■拒否権と大国主義について
拒否権についてさまざまな批判 があるのは理解するが、冷戦時代は、確実に、拒否権なしで乗り切ることは不可能だった。そもそも、現在の改革案の根底にある、「大国」が常任理事国になり 拒否権をもつべきだという考えがおかしい。P5(現在の常任理事国5カ国)は、1945年当時の「大国」ではない、「同盟」である。当時、中国は defeated powerであり、フランスはoccupied powerだった。最近、小諸島諸国連盟の 代表と話したが、43カ国の連盟である彼らは安保理改革については、驚くほど関心がない。大国が常任理事国入りすれば、小国の利害を代表するどころか、悪 影響を与えるだけである、という認識。援助やいくつかの外交カードとのトレード・オフは、もちろんどこの大国と小国の間でも裏で交わしているだろう。が、 実際の国連総会の投票は秘密投票なので、表ではG4案に賛成するという口上書を交わしたとしても、実際の投票で支持をしてくれるかどうかは、わからない。

■事務総長のG4案支持について
事 務総長が、昨年末までの安保理改革の遂行を強く押し、G4案を支持したこと(In larger freedomやHigh Level ReportでもA案としてもってくるなど)は、外交戦略的に見ても、「classic misjudgement」である。彼の周囲のアドバイザーでさえ、このタイミングで安保理改革は不可能、パッケージ案などは絶対に無理、G4案は支持す べきではない、と進言したが、事務総長は聞かず、G4支持に固執した。ワシントン側のシニカルな見方としては、事務総長はOil for Foodなどのスキャンダルの最中にいて、孤独だったため、大国の友達が欲しい心理状況だったんだろう、と話していたくらいだ。もともと、この話が始まっ たのは、2003年9月の国連総会の事務総長のスピーチからである。その年のはじめにイラク攻撃で安保理内が真っ二つに割れたこと、8月にはバグダッドで の国連事務所爆破テロで、後継者と目されていたセルジオ・デメロを失ったショックも、大きかったのだろう。ハイレベル・パネルを設置し、安保理改革を、突 然声高に言い始めた。日本がG4を結成し、積極的にキャンペーンを始めると、事務総長が支持し、各レポートでもA案として盛り込まれた。が、ワシントンが こうした動きに懐疑的冷笑的だったのは、先ほども述べたとおりである。

■Working Methodsの改革について
事務総長 は、最も難しい安保理改革から手をつけるべきだとか、パッケージ方式などという実施不可能な改革案を提案していたが、米国は簡単にできる改革から順々に進 めていく、という現実的な方針をとっている。現在、S5(スイス、リヒテンシュタイン、シンガポール、コスタリカ、ヨルダン)で進めている、安保理の Working methodsの改革から、機能性を強化していくことになるだろう。Membershipの改革は、よっぽどまた世界に何かが起きるまでは、相当先の話に なるだろう。


などなど。特に、事務総長の個人攻撃は、結構激しかった。明日は、事務総長の側近といわれる、Madam L教授にインタビューする。どうなることやら。

Tuesday, February 21, 2006

58. Team Torture...

さて、いろいろ書きたいことが溜まってきた。学校の方も結構忙しい。3学期目のグループ・ワークなどについて、少し。

International Human Rights: Law, Politics, & Institution のクラスでは、以前にも書いたように、3月下旬に模擬裁判のrequirementがある。私は希望通り、グアンタナモ米軍基地のテロリスト拘束収容所に 関する裁判に割り当てられた。そこまではよかったが、なんと米軍擁護のグループに振り当てられていた…。チーム・メイトは、他3人。メール上では既に、 "Team Torture"と呼び合い、さっそくチームの結束を固めている。どうなることやら。

このケースについては、つい先日タイミングよく、国連人権委員会がグアンタナモ基地の拘束施設を閉鎖するよう勧告を出した。(朝日新聞記事)が、当然ラムズフェルド米国防長官や米上院議員は、テロとの闘いに必要な処置である、と譲っていない。(BBC記事)しかし、南ア・ツツ司教や英大臣など国際社会だけでなく、クリントン元大統領などからも、閉鎖を求める声は高まっている。(BBC記事)我 々Team Tortureは、反論の余地を見出さなければいけない。そういえば、1年前にとった国際法の授業の最終試験でも、国防長官宛てに、イラク・アブグレイブ 収容所の虐待と拷問について、収容所の責任者をどのように処置するか、legal memoを書きなさい、という問題が出た。何を書いたか、今となってはほとんど覚えていないが…。うーん、頑張ろう…。

Conflict Assessmentの授業では、グループ・ワークではないが、各自、国とクライアントを選んで、Assessment Methodologyを使って分析し、発表する。私は、スーダンのダルフールを、世銀のmethodologyを使って、分析することにした。提案には 先生からGoサインが出たが、実際のところ、ダルフールは、PKOミッションの設立さえ、まだ決議されてない。世銀の出番は時期尚早…、という結論になる のかしら。

一方のPolitics of Policy Making のCase writingは、4人のチームで、安保理改革G4案を巡る攻防について。それとは別にとっている、Lindenmayer教授の SC/PKO in Africa の授業でも、先日、安保理改革についてのペーパーを書かされた。先生が小澤国連大使をクラスに招いてくださったこともあり、PoPのグループ・ワークの方 は順調。アウトラインはほぼ出来上がった。明日、あさってと、Edward Luck教授、Lidenmayer教授をインタビュー、小澤大使にも、3月にもう一度インタビューすることになっている。

個人的には、 昔は日本の常任入りは時期尚早なのではないのかしら、野心的な人たちの考え?と懐疑的だったが、この1年間、M参事官による安保理勉強会や、フォーラム勉 強会、そして二度の安保理傍聴などの中で、私の認識も変わった。思えば1年前、まだSIPAに入学したての頃に、下記のクルド難民の突然の強制送還の ニュースに驚き、当時とっていたManagement of UN Systemのクラスの中で日本とドイツの安保理入りについて、あまりに楽観的に意欲を示していたDirk Salomons先生のところへ抗議?しに行ったことがあった。日本国内には教科書問題や難民の強制送還など様々な問題があるし、安保理入りの意義も国民 に充分理解されてない。まだあまり楽観できるような状況ではないかもしれない、と言った覚えが。元気だったなあ。今は、安保理改革はできれば早急に、日本 はその推進役を担う過程の中で、中国との関係、ODA改革、難民の受け入れについて、同時進行で改善を推し進めていくべきである、と思う。靖国や歴史問題 についても、ODA0.7%議論にしても、安保理改革がテコになってくれたらとは思う。

しかし、最早、世の中は、人権理事会の創設と次期事務総長選びに、話題が移っている。安保理改革についての議論は、しばらく棚上げとなりそうだ。

日 本では、「人権」というとActivistをイメージする方も多いかもしれないが、今や国連では、安全保障理事会、経済社会理事会(ECOSOC)に続 く、「人権理事会」の創設もあって、「human rights」は流行りである。安全保障・開発・人権の三つが、自由を支える柱である、という概念を、昨年、国連が明確に打ち出したことが背景にある。国 連フォーラムでも、勉強会や議論が活発に続いた。開発業界の中でも、Rights-based approachがメイン・ストリーム化されたり、民主化やガバナンスの中でもRule of Law(法の支配)とHuman rights(人権)の概念は基礎となったりする。私もさんざ迷った挙句、Concentrationはhuman rightsで卒業することになりそうである。何故、人権?と日本人の同級生に聞かれることが多いが、本当のところは、流行りモノが好きな私はトレンドに のっているだけである。(Requirement数が少ない分、Coreの多いMPAには、Securityを選ぶよりも現実的だったという理由もあ る。)

でもよく考えると、一番初めに国際人権に関心をもったきっかけは、報道局時代だった。毎日毎日APとロイターが、アフガニスタン、 パレスチナ、カシミール、ネパールなど、世界中から繰り返し送ってくるグロテスクな映像をモニターしているうちに、素朴に戦時中の人権について疑問に思っ た。長い間、国際報道の映像の仕事をしていれば、次第に、何を見ても聞いても、動じなくなり、感じなくなる。米軍のアルカイダ掃討作戦、イスラエル軍のイ ンティファーダへの報復、テロの応酬や各地でのデモなど、9・11以降の1年は、特に異常だったのかもしれない。未だに、脳裏に焼きついている叫び声や死 体は、幾つもある。映像の力は強い。今はきっと、イラクから毎日繰り返し送られてくるテロの映像を、かつての同僚らがモニターし編集しつづけていることだ ろう。編集作業は、国民の夕飯のお茶の間に流せる部分だけを、編集マンに抜き出してもらい、音声原稿に貼り付ける。残虐なシーンや死体は、決してお茶の間 には流さない。だから、日本人は、世界で何が起きているか、あまり知らされない。

生でないだけマシだったのかもしれないが、報道局や編集 室に篭って編集していると、映像に映るパレスチナ難民のつんざくような哀しみも、アフガン難民の帰還の喜びも、次第に現実味を帯びなくなってくる。ニュー スは生ものだから、古くなれば捨てる。私の場合は、何を見ても何も感じなくなり、テレビ的価値しか見出せなくなってしまった自分に、ある日とてつもなく嫌 気が差し、早く現実の普通の世界に戻りたいと思うようになった。憎しみと怒りと哀しみに血塗られた幾つもの死を覗き見する間に、心に溜まってしまった穢れ や感情のかすを、どこかで吐き出し、洗い流したかった。早いところフィールドにでも行こう、せめてもの罪滅ぼしに、いつか国際法と人権のことでも勉強しよ う、と思った。

まあ、そんな訳で、human rightsをとっているのだ。それにたまたま運よく、最近の国連のトレンドが重なっただけで、本当のところ は、過去の罪滅ぼしの延長でしかない。言い訳がましくて、申し訳ない。

日本のお茶の間の皆さん、ごめんなさい! 世界ではいろいろ起きて たけど、み~んなカットしてしまったか、見て見ぬふりでした。皆さんが、夕飯を食べながら、ニュースを見られるように。もし海外で何が起きているかを見て みたかったら、夕飯時のニュースではないドキュメンタリーなどの番組を見るか、海外のテレビを見てみるといいかも…。


以上、徒然なるままに、三学期について。
えー、ところで、経済の授業は…。  ;;

Monday, February 13, 2006

Sunday, February 12, 2006

56. Afghan Refugee, Ali Jan 2

Dからの訂正と伝言です。

アリジャン君の事件は、まだ東京高裁で控訴審が争われるところで、その後に最高裁へ行く可能性があるそうです。http://jlnr.net/mt/archives/000054.php#more 2月20日(月)午前11時に東京高裁835号法廷で控訴審があり、誰でも何も見せずに持たずに傍聴できるとのこと。東京にいてご関心がありお時間のある方は、この機会に是非覗いてみてください、と!

(以下、抜粋)
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【傍聴のお願い】アフガン難民アリ・ジャン高裁第一回期日
去る11月11日東京地方裁判所で勝訴判決をいただいたアフガン難民で,『母さん,ぼくは生きてます』の作者アリ・ジャンの件、7000人を超える控訴断念要請署名を提出しながら、控訴されてしまいましたが、控訴審の第1回期日が決まりました。

2006年2月20日(月)午前11時、東京高裁825号法廷です。

たくさんの方が注目しているということは、一審の裁判官の心を動かした大きな要因となっているのは間違いありません。

是非とも、法廷にお集まりいただき、裁判所に思いを伝えてください。

◆場所:東京高等裁判所825号法廷:東京メトロ霞ヶ関駅A1出口を出てすぐ
◆日時:2006年2月20日(月)午前11時

アフガン弁護団
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(以上)

上記、難民弁護団のサイトを 覗いてみると、日本にいるビルマ難民やクルド難民に対する、彼ら弁護団のご活躍ぶりも伺えます。下記では触れませんでしたが、一昨年、渋谷区青山のUN House(国連大学)前に長らく座り込んでいたトルコ系クルド難民については、記憶に新しい方もいらっしゃると思います。私は昨年はこちらにいたので、 UNHCRからの非難声明(ノン・ルフールマンの原則に反するという)のニュースを読んで初めて、彼らが強制送還されてしまったことを知りました。気の毒 に…、とは思っていましたが、Dら弁護団のご活躍ぶりを伺うと、更に頭の下がる思いがします。私がDのためにできることは、こうやってお知らせすることく らいでしょうか。

どうして難民を受け入れなくてはいけないのか、よくわからなかった方、この機会に是非、「日本の難民保護」http://www.unhcr.or.jp/protect/proj.html を覗いてみてくださいな。

そして、昨年夏にDが出版した本も是非、この機会に読んでみてくださ~い。彼女が弁護士として歩んできた軌跡が記されています。これも、涙なくして読めないよ~。

Friday, February 3, 2006

55. Afghan Refugee, Ali Jan


早 く読んでみたいといったら、Dがわざわざ日本から取り寄せてくれた。彼女ら弁護団やJICAの皆さんが支援してきたアフガン難民、アリ・ジャン君の手記。 Dは校閲としてこの本に関わっているほか、お話の中にもたびたび登場人物として触れられている。お話に出てくるMさんは、SIPA卒で、現在は UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)東京事務所で働いていらっしゃるよう。SIPA生、Oin生は、必読です。難民が日本で直面した現実の重さに、涙 なしには読めませぬ。

母国アフガニスタンでタリバン政権におびやかされ、パキスタンで会ったブローカーに日本の成田空港で騙され、行き場 を失った asylum seekers。収容所の独房で難民認定を待つアフガン難民約30人のうち、強制送還に怯えた半数以上が19件の自殺未遂を起こす。2001年~2002 年の日本国内の話だそうです。

ちなみに、本の帯には、表に島田紳助の「この国はたった1人の青年さえ救えないのか?」のキャッチ・コ ピー。裏には、アフガン支援の政府代表も務めた、前UNHCR代表・現JICA理事長の緒方貞子氏からの言葉。「私はアフガニスタンから日本へ保護を求め て来日する人々の扱いにつき、常々矛盾を感じていました。出入国管理のあり方についても、もっと個人の人間性の尊重にもとづいた対応が必要だと考え、申し 入れをしたこともありました。」

で、この本が出版されてしばらく後の2004年5月に、出入国管理及び難民認定法が初めて改正される。また昨年11月、東京地裁で行われたアリジャン君の難民認定を求める裁判は、Dら弁護団が勝訴した。しかし、その後法務省が控訴しているので、その後最高裁に行く可能性がある。

最近、移民議論が盛んである。大学院の必修の授業でも、最終試験のケースとして、移民政策がとりあげられた。世銀は、移民が母国(途上国)に送金する資金がこの10年で倍増し、全世界で1500億ドルを超えて、援助資金を上回ったと試算する(詳細)。そ の一方で、先日はUNDPのある方が日本の経験を引用し、その国が発展するかどうかは中間層の愛国心が鍵である、移民政策を推進するのは発展にとって逆効 果かもしれないとも、おっしゃっていた。移民鎖国の日本でも、フィリピンなどからの介護福祉士や看護士の受け入れが試み始められたところのようだが、ごく 一部の話である。

そのような背景からか、日本の難民政策についての話になると、よく移民政策が引き合いに出される。が、問題が全く異なるような気がしてならない。政治的迫害を怖れて逃れてきたasylum seekers, 難民の認定は、経済移民とは問題が根本的に異なる。母国で迫害を受けるおそれのある難民を強制送還するのは、難民条約に違反し(注1)、ノン・ルフールマンの原則にも反する(注2)。アリジャン君の難民認定に関する、上記最高裁の行方が、気になる。

SIPA の皆さん、特にお国のために働いていらっしゃるみなさま、もしよかったら読んでみてください。僕には関係ないかしら? わかってはいるけれど…。学生の一 部で、本を出版する話もあるようですし。SIPA卒業生やNYUの学生が関わった本として、ご参考までに是非。SIPAで学んだことの一助として読んでく だったら、幸いです。そして、できたら社会を動かすこんな本にしてくらさい。一声かけてくだされば、お貸しします。

我らがOinsの皆さん、既にご存知とは思いますが、Dちゃんが深く関わった本です。私は今頃になって、読みました…。彼女からは、刺激をたくさん、戴いてます。ところで、後輩の菊川玲も難民支援をしてるよう。


(注1)難民の地位に関する1951年の条約 

第31条【避難国に不法にいる難民】
1   締約国は、その生命または自由が第1条の意味において脅威にさらされていた領域から直接来た難民であって許可なく当該締約国の領域に入国しまたは許可なく 当該締約国の領域内にいるものに対し、不法に入国しまたは不法にいることを理由として刑罰を科してはならない。ただし、当該難民が遅滞なく当局に出頭し、 かつ、不法に入国しまたは不法にいることの相当な理由を示すことを条件とする。

2  締約国は、1の規定に該当する難民の移動に対し、必要な制限以外の制限を課してはならず、また、この制限は、当該難民の当該締約国における滞在が合法的な ものとなるまでの間または当該難民が他の国への入国許可を得るまでの間に限って課することができる。締約国は、1の規定に該当する難民に対し、他の国への 入国許可を得るために妥当と認められる期間の猶予及びこのために必要なすべての便宜を与える。

第33条【追放及び送還の禁止】
1  締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない。


(注2)第81号(XLVIII) -1997- 国際的保護に関する一般的結論
i  【ノン・ルフールマンの原則】 の基本的重要性を認識する。同原則は、難民としての地位が正式に与えられているか否かに関わらず、人種、宗教、国籍、特 定の社会的集団の構成員であることもしくは政治的意見を理由にその人の生命および自由が脅かされる恐れがある領域の境界へいかなる方法によっても当該者を 追放しもしくは送還することを禁じ、または1984年の拷問等禁止条約に定める拷問を受ける恐れがあると信ずるに足る実質的な理由がある人をそのような危 険のある領域の境界線へいかなる方法であろうと追放もしくは送還することを禁ずるものである。

Sunday, January 29, 2006

54. Turning point - Starting the 3rd Semester

新学期が始まった。NYに来て1年。ちょうど半分の折り返し地点。これまでの1年があっという間だったのと同様、この1年も早いだろう。気を引き締めて頑 張ろう。必修授業で縛られた悪夢の先学期から解放され、ようやく関心のある授業をとれる!で、勢い余って19単位を登録してしまった。数週間以内にどの授 業を聴講もしくは、ドロップするか決める予定。

1. Economic Analysis II

MPA必修。前半ミクロ経済、後半マクロ経済。今回も、記事をもとにした経済分析のプレゼンがある。アフリカ経済のマクロ分析を一緒にやってくれる人を、Yと一緒に探すことにした。苦手の経済だが、今度こそは頑張るぞー。


2. Politics of Policy Making II

MPA 必修。今年度からカリキュラム再編で授業はなくなり、後期はCase Writing のみの1単位クラスとなった。Security Council Reform、G4案を巡る攻防について、日本人3人+アジア系オーストラリア人の4人で書く。最近の安保理傍聴や勉強会、授業で得たことを、活用できた らいい。


3. Security Council/Peacekeeping in Africa for the 21st Century

SIPAに来てよかった、と心から思った授業。教鞭を執るのは、「アナン事務総長の右腕」Lindenmayer教授、ブルキナファソ生まれの仏人女性。元国連Deputy Chief de Cabinet。 約1年前にあった、あの事務総長室人事シャッフルの煽りを受け、国連を退任。DPKOで長年勤めあげ、Oil for Food Program設立時交渉団の一員だったほか、ソマリア、ルワンダなど、90年代の主要オペレーションに参画。ある方によると、事務総長にあまりに近かっ たため、敵が多かったことから、人事刷新の際に対象になってしまったとか。情熱溢れる女性である。西アフリカに思い入れのある人々にとっては、当該地の平 和と安定は悲願であるが、彼女も正にそのうちの一人。先週は、これまでの功績が認められ、シラク仏大統領からの表彰を受けに、パリへと帰っていった。一 方、学生には、アフリカ大湖地域(コンゴ周辺)についての安保理公開協議の傍聴の手配を整えてくれた。再来週は、安保理改革について小澤大使を授業に招い てくださる予定。リーディングが山のようにあるが、日本人5名、協力しながら頑張ろー。


4. Conflict Assessment

Instructor's Permission Course のうちの一つ。紛争と開発の関係を、UNDPや世銀、USAIDなどのMethodologyを使って、分析する。最初は概念や各機関の分析手法を比較、 後半は学生各自、ケース国を選んで分析を発表、レポートをまとめる。


5. Challenges in Governance/Democratization

コロンビア大学PhD in Politics出身で、NDIの グルジアで民主化プログラムを実践してきたMitchel教授。中東と旧ソ諸国における米国の民主化外交政策について、早口でシニカルに回転よく話す。頭 がよすぎて、早すぎる。しかもゼミ形式なので、ディスカッションにはついていけるか不安。しかし、米民主化外交について批判的な旧ユーゴ、イスラエル出身 の学生が活発に反論を先生にぶつけていくので、聞いていて面白い。レジュメによれば、議会、憲法、司法制度、政府、市民社会、選挙、汚職、などについて、 話していく。アジア、アフリカの事例については経験がないぶん、生徒からの意見をwelcomeとのこと。面白く勉強になるが、ついていけるかは不安。


6. Topics in International Ethics

Michael Doyle教授。 かつてはプリンストン大で教鞭を執り、アナン事務総長アドバイザーも勤め、現在はコロンビア大SIPAとLaw Schoolに在籍。我が校の誇るリベラリストの巨頭である。秋学期にあるPeacemaking/peacekeeping の授業が評判が高い。この授業もInstructor's Permission Courseで、うまく受講を許可されたのはよかったが、リーディングをこなせるか不安。Realism, Liberalism, Marxismについて概観した後、人権、戦争・虐殺、テロ、国際介入、マルチ外交、平和構築、分配格差(貧富)などについて、各回、論考を深める。


7. International Human Rights

名物教授?、Peter Danchinによる、Human Rights専攻の必修授業。legal instrumentsやinstitutionよりも、概念についての講義が多いとのこと。最大の難関は、模擬裁判。元国連人権高等弁務官で現在コロンビア大学教授のMary Robinsonの前で、弁論をはらなければいけない。頭が痛い。


この上、二日間のshort course、International Humanitarian Lawもとりたかった。全部は無理なので、この数週間で、どの授業を落とすか、絞込みます。どれも難しい…。

先週は履修登録の一方で、先に書いたコンゴ周辺アフリカ大湖地域に関する安保理公開協議のほか、月曜日には東ティモールに関する安保理公開協議を傍聴してきた。このことについては、またいつか。

Monday, January 16, 2006

53. New York, NY


From "Top of the Rock"


From "Top of the Rock"


Ground Zero


Times Square


From Battery Park


Sunday Branch "East Meets West" @ Blue Note


"Die Fledermous (The Bat)" @ The Metropolitan Opera

Neighbourhood


先日、とある友人に言われた。「father complexでしょ? 私も。だから、私たち彼氏ができないのよ。」…う。返す言葉もない。母にさえ、いわれたことがある。「あなた、お父さんの相手ばかりしてあげてたら、お嫁に行けなくなるわよ。」 縁起でもない。

ちょっと古いが、壇ふみと阿川佐和子の名エッセイが、あまりにおもしろいので、一時期はまったことがあった。「ああ言えば、こう食う」「まだ、ふみもみず」「いつもひとりで」…、 止まらない。二人とも、壇一雄、阿川弘之という作家の父をもち、同年代で、独身。ユーモアと品と教養で、家族のこと、日常のこと、仕事のことを、綴ってい る。読んだことのある方も多いと思うが、私たち30代の女性だけでなく、男性諸氏にもお勧めできる。特に、娘から見た父の記述くんだりがおもしろい。こん な父娘の関係になれたら…、とよく思った。

作家と女優の父娘に、我が親子を比べたら天罰が下りそうだが、我が父は、ごく普通の、高度成長 期を支えた、典型的な日本のサラリーマンだった。昭和一桁生まれで、神奈川県藤沢で生まれ育ち、海が好きで、横須賀の米軍基地から流れてくる音楽を聴い て、独学で覚えたピアノを弾く。料理をするのが好きで、よく作ってくれる。週末に父の手料理を食べるのが、私と兄の幼い頃の楽しみだった。私が大学一年生 のときに定年退職し、その後は本格的に農業をはじめた。母の実家がたまたま農家だったため、まとまった土地を無料で借りることができたのが、幸運だった。 年に二十種類ほどの野菜を作り、土を愛す。父が畑を始めてからは、母は野菜を買わないで済んでいる。夢だった手押し耕運機を買って、「これ、僕のロールス ロイス」なんて言っている。

私が、大学時代や社会人になってから、悩んでいることがあるときには、決まって父は畑を手伝わせた。せっかく の週末、いろいろやることがあるのにな…と思いながら、私も、しぶしぶ手伝いをはじめるが、不思議と、土をいじっているうちに、気持ちが晴れてくる。日が 暮れ始めると、採れたての野菜を近所に少し配り、残った野菜で父と夕飯を作る。父の料理は、相変わらず、美味しい。母は、家で子供を教えているため、仕事 があるので、我が家はジェンダーが逆である。

私が小学生の頃や、中高の頃は、こんなことは考えられなかった。銀行員だった父は転勤や単身 赴任も多く、日曜日でさえ接待ゴルフにでかけ、ほとんど家にいなかった。夏休みにも、なかなか家族旅行にさえ行けなかった。定年退職後、土をいじり始めて から、穏やかになった父を見て、人は変わるものだ、とつくづく思った。

母と再婚の父に、私以外にもう一人娘がいる、ということを初めて父 から聞いたのは、私が東ティモール・イギリスから帰ってきた、なんと一昨年前だった。再婚であるのはよく知っていたが、長年会いたくても会えない娘がい る、というのは知らなかった。母も兄も親戚も、誰も私に話さなかったとはいえ、私も自分の鈍感さにほとほと呆れた。何故、父が私に必要以上の愛情を傾ける のかも、やっと理解した。

そんな父も今年、73歳を迎える。昨年末、貝にあたり、倒れて額を打った。なんとか体調を回復させて、年始に NYまで会いに来てくれたが、額の傷が痛々しい。最近は右足が痛いと、杖をつきはじめ、休み休みのNY観光だった。今年60歳になる母の方は、子供たちが 待っている教室を休みにできないといって、今回は一緒にNYへは来られなかった。休みにしたほうが、子供たちは嬉しいのでは…、と思うが、やはりそうでも ないらしい。

我が母は、幼いころに親を両方とも病気で亡くしているので、できるときに親孝行をしておきなさい、と強く勧める。「あなた、 今頃になっても、まだ学生やってるし、しかもその後、アフリカで働きたいなんていってるんじゃ、孫は当分先ね…。でもいいのよ。あなたは、あなたの人生を 歩みなさい。」 もはや、返す言葉は何も出てこない。

ここ数日で、御めでたいニュースを友人たちから、あちこち戴いた。
新年早々、景気がいい。

心より、おめでとう、おめでとう!

Friday, January 13, 2006

52. Media in Peacebuilding, Timor-Leste

最近、東ティモール時代の元同僚から、ブログや個人サイトを送ってもらったので、2つ紹介。

ハカンの写真サイト

ハカンは、元UNMISET/UNPOLの Public Information Officer(国連東ティモール支援ミッション・国連警察・広報官)。私が前半、国連駐在代表室(Resident Coordinator Unit)で、国連諸機関の Media Officer として働いていたときの、UNMISET側のカウンターパートでした。トルコ警察部隊から来た広報官。趣味や人としての、幅の広さと奥の深さを感じさせる人でした。特に親しかったわけではなく、仕事上で何回か合ったり、イベントやパーティーで顔を合わせた、知り合い程度だったのですが、未だにときどき当時の広報官仲間にメールをくれます。上記サイトでは、東ティモールの美しさを、絶妙に撮った写真が集められています。必見。


カルラのブログ

カルラは、私が後半に、UNDP東ティモール事務所の Capacity Development Unit で、働いていたときのポルトガル人同僚。"Support to Capacity Development of Government of East Timor" (通称"200 posts project"、現在はPhaze IIで、Institutional Capacity Development Support Program)というプロジェクトで、一緒にProject Officerとして働いていました。ユーモアに溢れ、よく一緒に泣いて笑いながら働きました。東ティモールでの仕事を終えた後は、東ティの孤児を養子にとって、ポルトガルで育てていましたが、どうやらまた東ティに戻るよう。ブログはポルトガル語ですが、今後は英語でも書いてくれるとのこと。左下の写真欄で、子育ての様子を綴っています。今度は、子供関係のNGOで働くそうで、また東ティモールからの様子を教えてくれるのを、楽しみにしているところです。



先日は、N時代の仕事について触れたので、今度は東ティモールの国連駐在代表室広報官時代の仕事について少し。

東ティモール前半、私が働いていた国連駐在代表室(Resident Coordinator Unit)というところは、国連諸機関で構成されるカウントリー・チームを率いる国連駐在代表システム(RC System)を、サポートするところです。私が居た頃は、駐在代表の下、室長と広報官の二人しかいない、小さなUnitでした。駐在代表は、通常、その国のUNDP代表が兼任し、UNDPUNICEFUNHCRWHOWFPなどの国連諸機関(時に世銀なども含む)をコーディネートをする、地味ですが重要な役割を担います。CCA(Common Country Assessment)やUNDAF(UN Development Assitance Framework)、MDG Report(Millenium Development Goals Report)といった、国連機関共通の国別アセスメント、開発計画、レポートを、途上国政府の国家開発計画(NDP:National Development Plan)、世銀の貧困削減ストラテジー・ペーパー(PRSP:Poverty Reduction Strategy Paper)とすり合わせて、策定していきます。こうしたUN RC systemは各国で形成され、その様子はUNDG(UN Development Group)のウェブサイトに詳しく載せています。

中でも、東ティモールをはじめ、アフガニスタンやリベリアなど、国連平和維持活動が行われている国では、国連駐在代表が、PKO (Peacekeeping Operations) Missionとのコーディネーションも行います。その国の紛争を恒常化させない要因のひとつとして、平和維持活動と人道、開発・発展への道筋を、途切れなく滞りなく、スムーズに計画・実施することの重要性が、認識されているからです。「紛争後の平和構築」と呼ばれるこうした時期では、国連システムの統合は不可欠で、通称「ブラヒミ・リポート」と呼ばれている国連PKOパネルが発行したレポートでは、その重要性が強く指摘されました。レポートでは、駐在代表(RC)が、UNDPの代表(RR)だけでなく、PKOミッションの副代表(DSRSG)も務め、国連平和維持活動と国連人道・開発計画のコーディネーション全体を指揮するよう明記されています。(ちなみに、日本人パネリストの志村尚子氏は、私の母校の大学長で、もともとはDPKOに長年勤めていました。)

しかし、こうしたUN Coordination の仕事は、"Catching butteflies"と皮肉られほどで、実際は、それぞれ異なるmandateとfunding, administraionのもと、ばらばらに活動する国連諸機関をまとめるのは、至難の業です。東ティモールでは、2002年の独立と同時に、UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)OCHA(国連人道関係調整事務所)がなくなり、代わりに独立後に引き継いだUNMISET(国連東ティモール支援団)に、このRC/RR/DSRSG Systemが初めて導入され、その調整の役割を果たすことになったのです。私は、ちょうどその移行の時期の2002年5月に、赴任しました。

私の仕事は主に、2002年5月の国家独立と9月の国連加盟をカバーしにくる各国ジャーナリストのリエゾン、独立式典に合わせた"UN Works"写真展と、10月UN Dayの国連加盟記念イベントのアレンジのほか、国連駐在代表室のウェブ・サイトの設営(昔のです。もうなくなったと思っていたらまだ残ってました。本を見ながら必至で初めて作ったサイトですので、どうかご容赦を! 現在のページはこちらです。)毎週開かれる国連諸機関の代表を集めたカウントリー・チーム・ミーティング(Heads of UN Agencies Meeting)の補佐、そして在東ティモール・国連システムの様々な広報官を集めて行うInformation Committeeのコーディネーション、…などなど、でした。

私のメインの仕事だったUN Information Committeeでは、UNDP、UNICEF、UNHCR、WHOや世銀など、各機関のそれぞれの広報官、それから国連平和維持部隊であるUNMISETのSpokesperson Officeと広報部(TV、Radio、Publication)のほか、各国平和維持部隊(日本の自衛隊や各部隊の広報官)、国連警察(UNPOL)の広報官(ハカンら)を召集し、月に1~2回会議を開いていました。基本的には、各機関の近況・情報交換のほか、それぞれ、ばらばらに動いている国連機関を、"Harmonized UN system," "The One UN" として東ティモール国民に演出するには、どうしたらいいか、次はどこが何のプレス・リリースを出すか、などの話し合いをしていました。が、実際は、途中、UNMISET報道官と広報部長のポストがなかなか埋まらず、待てど暮らせど着任しないため、皆かなりばらばらに行動していた他、地元メディアからいろいろつっつかれたりして、右も左もよくわかってなかった私は、かなり苦労しました。

一方、当時の地元メディアの背景は、独立前に、住民選挙、憲法制定委員会選挙、大統領選挙などで重要な役割を果たした、国連テレビ(TV UNTAET)と国連ラジオ(Radio UNTAET)が、それぞれ、TVTL(東ティモール・テレビ)Radio TL(東ティモール・ラジオ)へと、引継いで独立したばかりでした。しかも、独立後の国連広報部と、TVTL、Radio TLの間には、人材や機材引渡しの面で、確執が残っていました。東ティモールではもともと、新聞とラジオ以外に独自メディアがなかったので、公正な地元メディア、特に首都のテレビと村のコミュニティ・ラジオをどのように育てていくべきかは、たびたび議論にあがりました。

特に印象に残っているのは、12月4日の暴動後、緊急に開いたInformation Committee Meetingです。2002年5月の国家独立から約半年後の12月4日、高い失業率に喘ぐ首都ディリで、学生デモが暴動に発展しました。初めは小規模だった学生デモに対し、まだ生まれて間もない新東ティ警察が発砲。二人の学生が死亡し、デモは暴動に発展。首相の家とモスク(東ティは国民の95%がカソリックだが、首相はモスリム)が焼かれたほか、外国人が利用するスーパー・マーケットやホテルが焼き払われました。(暴動の詳細については、F大使(当時)の報告から様子が伺えます。

その直後に開かれたInformation Committee 緊急会議では、様々なことが話し合われました。東ティモール国民は、長年の夢だった国家独立を叶えた後、経済基盤と人材のない現実を目の当たりにし、目標を見失って自暴自棄に走っている、国民に希望を見せること、持たせることが、国連メディアの役割として重要である、という話になり、そのためには、

1.月に2回ほどのペースで、地元メディアにコンスタントに情報源を与え、国の課題が、安全保障や難民、選挙、独立から、教育・医療・経済などの開発・発展へと、移行したことを認識してもらう。(プレス・コンフェレンスの定期開催。MDGの広報キャンペーンの強化。)

2.ローカル新聞やテレビが、世論を率い、オピニオン・リーダーとなり、新政府の監視役となる役割を果たすため、公正で正確な報道を行うプロフェッショナルなジャーナリズムの技術を身につける。特に、人材育成と財政マネジメントのアドバイザリング。 (国連アドバイザーやNGO Internewsを通した、ジャーナリスト・トレーニングや人材育成への働きかけ。メディア法の制定。)

3.警察官のイメージの刷新。東ティモール国民にとって、「警察」といえば、インドネシア統治下時代、独立運動を暴力で潰されたトラウマ、汚職にみちたポリシア(インドネシア憲兵)の、「権力と圧制」のイメージがある。国民だけでなく、新東ティ警察官自らも、そのイメージを払拭し、「市民を守る」警察のイメージを養う。(UNMISET広報部とUNPOL広報が中心になった、東ティ警察のメディア・キャンペーン。)

4.独立後、数ヶ月間ポストが埋まっていなかった、UNMISET Spokespersonと広報部長の即時着任要求。(これが、穴あきポストが多く機動力が遅い、と言われるUNの現実。)

…などなどが決まり、それぞれ、すぐに実施しました。

少なからぬUNMISET広報部、Internewsのメンバーは、もともとジャーナリストだった人も多く、BBCやCNNで働いていた人、カンボジアやボスニアの選挙を渡り歩いてきた人、東南アジアの島々を描くドキュメンタリーを撮っている間に東ティにたどりついた人、など、個性的なメンバーばかりで、私は大好きでした。彼らは、住民投票後の99年の騒乱で、報道や映像を見て、動かされてきた人が多く、また、ジャーナリズムの力を信じている人たちでもありました。東ティモールでは、91年のサンタ・クルース虐殺事件のインドネシア軍による残虐な行為を写した映像が、75年のインドネシア併合以降、国際社会から忘れ去られていた東ティモールの惨状と存在を世界に知らしめた、という経緯があります。以来、ジャーナリズムはこの国の独立に、一定の役割を果たして来ました。まだ若かった私にとって、またメディアから移ってきたばかりだった私にとって、他の国連職員が、時に組織の論理だけで行動する国際官僚に見える中、彼らはより地元の人々の声を聴き反映させる努力を惜しまず、かっこよく見えました。(若かったので、見えただけだったのかもしれず、本当のことはわかりません。)

トルコ人警察広報官だったハカンは、当時のメンバーの一員でした。モメンタムを共にくぐり抜けた時の仲間として、細く長く、これからも繋がっていくんだろうな、と思います。大変だったこと、印象深かったこと、近かった仲間ばかり覚えていて、忘れかけてきている多くの、小さな出来事や、楽しかった些細な想い出、知り合いなど、国連東ティモールで働いたことの何よりの財産を、最近しみじみ感じ、つい今日は長々と書いてしまいました。

Tuesday, January 3, 2006

51. Happy New Year 2006 !

新年明けましておめでとうございます。

2006年、SIPAでの留学生活も二年目に入り、最後の年。今年の抱負は言うまでもない。卒業と就職。一年後の元旦には、私はもう職を得て、この部屋を出ていなくてはいけない。覚悟を決めて、臨みます。語学力習得、その他に励みます。どうか今年もご指導いただけますよう、宜しくお願いいたします。

このブログも、留学出発直前のちょうど一年前、去年の元旦明け二日、楽しい留学生活を報告できるようにと、抱負を込めて開いた。お陰様で、昨年一年は、目標だった留学を果たし、人生で一番、平穏に過ごせ、幸せだった。生き急ぐのではなく、生きることの歓びを味わいながら、夢と希望をもって願い、目標をもって努力を続けることの大切さも学んだ。

平穏も無事も幸せも平和も fragile で、与えられるものではなく、築きあげるもののよう。どうか今年も、これからの10年も、私の愛する人々が平和で無事で、幸せであれますように。祝福に包まれますように。

2006年 元旦

Monday, January 2, 2006

50. End of 2005 & Beginning of 2006


@ Rockefeller Center


Skate Link @ Rockefeller


Lincoln Center (pic from A-chan)


Nutcracker @ Lincoln Center (pic from A-chan)


Columbus Circle (pic from A-chan)


@ St. Johns the Divine Cathedral 鶴や孔雀の折り紙の飾り。


Peace Concert


ソプラノ歌手による歌のほか、第九を演奏


Chef Aの巧みな盛り付け


うちのお雑煮


この上、ぜんざいも食べる。食べ過ぎた…。残りは明朝に。演出家Aにより、クリスマス・ツリーの小枝も、あっというまに松の枝に変身。上のお獅子は、Chef A' からのお年賀。

年末年始

クリスマス後、第二の帰省・脱出ラッシュが相次ぐ。私は、昨夏に一時帰国をしたし、年始には父がNYを訪れるので、今年の年末年始はNYで過ごし、観劇に徹した。NYに来て1年というのに、観たものは先日かいたブロードウェイの1つのみ。これまでは勉強が大変で余裕がなかったせいもあるが、せっかく学生割引があるというのに、これではもったいない。なんとか正常に、先学期 -苦痛以外の何ものでもなかったが、大変有難い勉強の機会に感謝はしている- を乗り越えたので、祝いがてら楽しんだ。

まずは、ずっと観に行ってみたかった、クリスマスの風物詩『くるみ割人形』。一緒に観に行くAちゃんとK君によると、この Choreograper George Balanchine による New York City Ballet の『Nutcracker』は、特にいいらしいとのこと。「この一年、お疲れ~」と、自分への褒美に、奮発して一階席をとった。席をネットで確認していなかったので、当日に行ってみてびっくり、なんと一番前の席。もちろんベストではないのだろうが、オーケストラの演奏の様子、踊り子たちの表情や息遣いを観ることができる、とAちゃん。偶然、国連フォーラムでお会いしたECOSOC日本人職員の方にも、一番前の席でお会いした。観客は、家族連れが多い。私たちの後ろも、アフリカンの子供連れがわいわいやっている。公演が始まり、踊り子の子供たちがたくさん出てきた。彼女たちの笑顔の輝きといったら、もうたまらない。晴れの舞台に立つ歓びが体中から溢れ出ている。ブロンドに青い目の踊り子が多い中、主役を演じる女の子はラティーノだったのか、一人だけ黒髪の黒い瞳。華があり、オーラに包まれていた。チャイコフスキーを振る指揮者は、女性。女性の指揮者を見るのも、私は初めてだった。今回の観賞の感激は言葉に尽くせない。夢は、持つもんだ。

翌日は、N・NY総局に呼ばれた。私の後任の後任、NさんがNYを訪れるので、NYを案内してあげてほしいとのこと。学期中は忙しくて総局に遊びに顔を出せなかったので、元上司はちょっとご不満の様子。でも訪ねに行くと、なんとかご機嫌を直してくださった。ほ。以前、私にも総局を案内してくださったのと同様、今回もNさんのために中を案内。海外中継用のスタジオ、クロマキー、9・11のときにも活躍した天カメ、映像回線室と伝送経路について、一緒に説明を受ける。現役ADのNさんは感動している模様。私も、東京での仕事を辞め東ティモールにいた頃、休暇中に、初めてジャカルタ支局の中を案内してもらったときの感動は忘れられない。東京報道局のニュースセンター(NC)で毎日受け手にいるだけでは、なかなか送り手の海外支局のことは想像がつかない。現役のときに、こうして外の支局を紹介してもらえるというのは、羨ましい。

その後、ランチにブラジル料理に連れて行ってもらう。N7、N10、国際班の、今の様子を伺う。1月からは、N10ではなく、N9に戻るとのこと。昔のメンバーも元気そうで何より。元上司と別れてからは、Nさんとロックフェラー周辺へ。その後は、仕事の四方山話に華が咲いた。

国際放送局、報道局国際部、テレビ・ニュース部国際班、国際回線室やBSの番組部などでは、外大や上智、ICU出身の、語学堪能系の若いスタッフが、契約で多く働いている。そんな中、二人しかいない、N7/N10・国際班・アシスタント・ディレクター(AD)の仕事は、体力勝負できつい。報道の心臓部と言われるNC(ニュース・センター)で仕事し、ある意味、国際報道の最前線にどっぷり漬かれておもしろいが、実質は体育会系ともいえる。9・11のときなどは、数週間後も特別体制が敷かれ、緊張が続いた。職員は交代で休みに入るが、アシスタント・ディレクターには休みがない。このままいったら倒れるな~と思っていたら、運よく急性盲腸炎にかかり、二週間の休みをもらえた(痛かった)。代わりに、他に休みはなかった。ま、普通なのかな。その代わり、何故だかわからないが、NDには本当にかわいがってもらえる。未だにこうしてお世話になっている。義理人情に厚いあたりも、体育会系的であるといえるかもしれない。

余談になるが、国際報道映像制作の裏側というのは、同業者でさえ想像のつきにくい仕事のようなので、この機会に簡単に説明を。国際班ADのボス、国際班/ニュース・ディレクター(ND)は、国際部/デスクや特派員記者が出稿する原稿に合わせて、映像をつなぎ、スーパー(テロップ)原稿を作り、中継のコーディネーションをして、キューを出し、映像送出卓を叩いて、放送を出す。アシスタント・ディレクター(AD)は、彼らのアシスタントとして、あらゆる映像(ロイターAPEVNAsiavision Al Jazeela, の配信映像から、独自映像まで)に目を通し、映像キャプションと著作権利情報を確認し、通訳と編集マンと編集作業をする。コーディネーター、国際回線室、海外映像室、音声室、を往復して、海外支局からの伝送映像や音声がきちんと届いているか確認し、録画してもらう。その日のレポートや情勢に合わせて、ダリ語、パシュトゥン語、アラビア語、朝鮮語、ウルドゥー語、英語などの通訳を手配し、アフガン人やイラク人のインタビュー、ブッシュやラムズフェルド(米国防長官)の記者会見を訳して、翻訳スーパーを入れる。映像に映る顔や場所、軍機などを見て、正確な名前や肩書きを言えるよう、国際政治の主人公と脇役、舞台、戦闘機や軍艦、ミサイルの名前を覚えていく。リアルタイムで国際情勢が更新されていく中、誤ったキャプションや放送事故を出さないよう、細心の注意で事実関係を追い、作業手順を確認する。一方で、資料映像を使って絵で語らせる場合、NDから「ユーゴ空爆、ミロシェビッチの直近」と言われれば、ビル中にあちこちに散らばっている膨大な映像倉庫とデータベースから、いくつもの映像を引っ張り出し、見て、編集マンといいカットを掘り当て、切り貼りする。国際ニュースを長年こまめによく見て覚えているのが、いいニュース映像制作の仕事に繋がる。みんなが何気なく見ている国際ニュースの、ワンカット、ワンカットは、これだけの人々が関わり、時には何時間もかけて選び出したベスト・カットの塊なのである。(…と、この機会に、ちょっと言ってみたかった。)上記はまだごく一部で、それ以外にも細かく複雑な過程を、編集マンや、通訳、ND、コーディネーター、回線室、音声室と、クリアしていく。しかもそれぞれは技術屋であって、国際情勢を理解している人は少ない。国際政治を理解している人にいたっては、一部の通訳とNDだけだ。共同作業ではあるが、これらすべてをAD二人でやるのだから、結構疲れる。

しかも、NCには、女性がほとんどいない。常時、百数十人がひしめく大フロアなのに、1割もいない。人使いは荒い人とも、適当に上手にかわしながら働くので、苦労は絶えない。今はどうかわからないが当時は、NCは禁煙エリアなのに、NDも記者も喫煙したままなので、窓のないNCの空気はいつも白く濁っていた。また、モニターする国際映像というのも、その多くは、世界中で起きたテロや事件・事故の映像で、爆発で引きちぎられた肉塊や、潰れた顔、死体の山、最近ではアル・カイダが捕虜の首をのこぎりで切り落とすシーンなど、である。慣れるまでは、食事も喉を通らない。生きている人間の映像と言えば、ブッシュにキム・ジョンイルに江沢民(当時)…。会見編集作業などで、彼らの顔ばかり何時間も眺めていれば、これも食傷気味になる。私が入ってすぐの頃は、小泉氏の靖国訪問に抗議をする韓国右翼数十人が、日本大使館前で号令と共に小指を切り落とし、韓国国旗に詰めた小指の小山を盛って包んで送りつける、という事細かな映像を、何度も何度もロイターやAPが送ってくるので、参った。…いろいろ大変だとは思うけど、負けないで頑張るんだよ、とNさんを励まして、翌日、国連ツアーに連れて行く約束をして別れる。以上、閑話休題。

その日の夜は、同級生たち6人で『SAYURI』を観に行く。前評判が悪かったからか、私はいい印象を得る。特に主役のチャン・ツィイーとコン・リーがよかった。何で主演の芸者はやはり日本人がよかった、と諸君がいうのか、よくわからない。あの二人に勝り、世界に通用する、いい女優が、日本にいるとしたら、一体、誰なのだろう。私は『初恋のきた道』も『紅いコーリャン』も大好きだったので、二人の印象がいいのかもしれない。こんな素晴らしい日中友好の映画を作ってくれた米映画人に感謝すべきだ。と、私流解釈。

次の日は、Nさんを国連ツアーへ連れて行くが、これが年末で恐ろしい混みよう。長蛇の列を一時間近く並び、やっとツアーに参加。私にとっては二度目のツアーだったし、国連総会のときにいろいろ歩いたので、まあ特に。別れ際、Nさんに報道局の皆さんへ、とUNチョコのおみやげを託す。激動の国際情勢を映像で追うのは、大変だけど、とても貴く大切な仕事。頑張ってください。どんな国際ニュースに触れるたびにも、いつもNC国際班のことを思っていますよ~。

翌々日の大晦日前日、30日は、夢にまで見た、念願のBlue Note, New Yorkに、初めていく。Chef C に誘われ、同じくJPOのTさん夫妻お勧めの年末ライブだったので、迷わなかった。しかも、Blue Note NY は、日本の約半額の値段! 学生の頃、よっぽどBlue Note Tokyo でバイトをしようかと思ったくらいだが、人生を踏み誤りそうだったのでやめておいた。なので、想いは格別だった。95年にグラミー賞ベスト・ボーカルを授賞した、女性ジャズ・シンガー、Cassandra Wilson。私は知らなかったが、Chef C とTさんの二人は、セントラル・パークでのサマー・ステージで、彼女のライブを見たとのこと。ライブが始まると、彼女の低い声と、メローなリズムに、私は固まってしまった。Jazzy, Vosa Nova, and West African な音楽に、心が揺さぶられ、涙が止まらなかった。自分でも驚いた。特に、バック・バンドのハーモニカとドラムが素晴らしかった。最後、アンコールの曲は、Bob Marley の『Redemption Song』。想い出深い曲だったので、これにもノック・アウトされる。これまで、いろいろな音楽を多く聴いてきたけれど、でも、本物に触れる瞬間というのは、こういうことのなのでしょうか…。

31日の大晦日。午後4時頃から、Chef A と Chef A'とお正月準備を始める。とりあえず、ジャスマートへ買出しへ。6時半からは、ルームメイトも誘って、すぐお隣の教会へ。以前からK夫妻のお誘いを受けて、約束していた、 New Year's Eve Concert for Peace へ。無料。入ってすぐに、鶴と孔雀の折り紙が散りばめられた巨大なクリスマス・ツリーが待ち構えていた。司祭は、カトリーナや津波、地震などの災害被害者への祈りを捧げる。ソプラノ歌手による歌のほか、最後には第九も聞け、ああそいうえば、大晦日か…と思い出す。Y夫妻も来ていた。年越しの挨拶をして別れ、我々はアパートへ戻って作業再開。年が明ける前に、ご近所様のK夫妻と、おせちとお雑煮をお裾分けしあう。K夫人の、手作りおせちの美味しさに、舌鼓を打つ。やはり夫人は違う、と我々ジャス・マートおせち組は、恥じ入るばかり…。でも、ま、始めたのも遅かったし、お雑煮も悪くなかったし、年越しそばもおぜんざいも食べられたし、まいっか。明けましておめでとう。今年もどうぞよろしくね。三人で、今年の抱負を誓い合う。

その後は、UNツアーの際に仕入れた『En Route to Baghdad』というSergio de Melloの生涯を描いたドキュメンタリーを三人で観賞。セルジオ・デメロは、UNTAET・東ティモール暫定統治機構の事務総長特別代表(SRSG)を務め、東ティモールにとっては、1999年の住民投票後の混乱から、2002年独立までを導いた、産みの親でもある。私も独立直前に東ティへ赴任したので、ぎりぎり彼の時代をかいま見た。

当時、2002年5月20日の東ティ独立式典の翌日、コフィ・アナン事務総長夫妻を初め、ルベレス元難民高等弁務官、アルカティリ首相、ラモス・ホルタ外相などが、UN Houseを訪れるのと同時に、セルジオもPKO庁舎から少し離れた国連機関事務所に顔を見せた。少し前までニュースを作っていた私にとっては、何度も編集したセルジオを、生で(実物で)見るのは、なかなか感慨深かった。我々メディア・オフィサーらが夜を徹して作業した写真展を、SG(事務総長)が観賞する後ろで、ネクタイを外して汗だらけのセルジオが走り回り、スタッフにあちこち指示を出していた姿が印象的だった。彼が任務を終え東ティを去った後も、エピソードや名声は残り、存在感や影響力の大きさをいつも感じさせた。

類希なリーダーシップ、各フィールドで実績を残す実力、共に米国が唯一認める、生え抜きの国連高官。それが、命を落とす遠因だったとも言える。イラク・ミッションのSRSGに再び任命され、数ヶ月もたたないうちに、テロで殺された。「米国がセルジオを殺した」 IAEAの調査結果を無視し、大量破壊兵器開発疑惑をでっちあげ、安保理決議を曲解し、国際法違反を犯して、武力行使に踏み切り、セルジオを道連れにした。スタッフ内で感情論がうずめく中、右腕を亡くしたコフィ・アナンは、米国との確執を深めた。任期最後の今年2006年を、どう修めるのだろう。

Aちゃんは明日からタンザニアへJASIDNY支部の研修旅行。いってらっしゃ~い。Nさんはモロッコへ。K君はジャマイカへ。Yはバハマへ。みんな、いいなあ。元旦夜は、私はルームメイトとAと三人で、Alvin Ailey の最終公演へ。African American Ballet Company で、毎年この時期に定例公演を行っているよう。 副ディレクターは、日本人が務めているとのこと。随分前から友人に勧められていたが、試験などでなかなか行けず、最終公演になってしまった。25ドルの天井桟敷の席だったが、これまた凄かった。最近は、どうしてこう当たりが多いのだろう。4つの演目とも、鮮やかな衣装に、洗練されたバレエの動き、高い跳躍力、躍動感。アフリカの伝統音楽と踊りに、最新のモダン・バレエの技巧を織り交ぜ、ゴージャスに踊りきる姿に、満場総立ちで拍手喝采、最終公演の幕を閉じた。私にとっては、なんて素晴らしい元旦の夜、2006年の幕開け!